宗祖親鸞聖人750回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」をとおして、お話しさせていただきます。今回は第6回目です。
親鸞聖人の「本願念仏の教えに生きられた」ご生涯にふれながら、現在の私たちの生活を確かめていきたいと思います。
関東に住み20年問、縁ある人々とともに、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」というよき師、法然上人の一言を依り処にした聞法の生活は、やがて各地に念仏者の繋がりへと弘がっていきましたが、親鸞聖人63歳の1235年文暦2年、30年ぶりに京都へ戻られる事になりました。この事は大切なものとのお別れを意味します。
私たちが生活で望んでいる大切なものをあげるとしたら。1つ目があたたかい家庭、2つ目は経済的な安定、そして3つ目は人生を語り合える友。この3つの事柄が生活の望みであり、大切なものといえます。
親鸞聖人にとってこれまでの人生で、関東での生活が最も恵まれた時といえます。そして年齢的にも必要な世代であります。京都に赴くとは、そのすべてを失うお別れを意味しています。それも自ら進んで、その道を選ばれた。
「捨てられたものの大きさが、選びとられたものの大きさを物語っている」ということがありますが、何を選びとられたか。それは浄土真宗の興隆つまり、報恩感謝のお念仏と云う事であります。聖人が真宗の教えを伝えるため、著作と聖教の書写されたものや、関東のゆかりある人々へのお手紙が、今日多く残されていることからうかがえます。
そして、親鸞聖人は1262年弘長2年11月28日、弟尋有(じんう)の坊舎善法院にて、90年の生渥を終えられました。お別れを看取ったのは、末娘の覚信尼や、三男の益方入道と数人であったと、妻、恵信尼の『御消息』お手紙に標されています。また、その時の様子を親鸞聖人の曾孫(そうそん)ひ孫に当る本願寺第3代覚如上人が、『本願寺聖人伝絵』 (「御伝紗」)つまり聖人のご生涯を絵巻物として広く世に伝えるため、絵詞(ことば)に著わされたものに、次のように伝えられています。
聖人弘長二歳 壬戌 仲冬下旬の候より、いささか不例に気まします。自爾以来、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言のあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。しこうして、同第八日午時、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。
訳してみますと、「親鸞聖人は、11月の下旬の頃から、それまでと身体の具合がよくない様でした。それからは、あまり世の中の事などを語られず、話す事と言えば、これまでの人生が、仏さまの教えに出遇い、生かされて在ることへの御恩でした。死期も近づき、痛いとか、きついとか、身体の加減や、何か他に云い残す事でもあるかと、耳を澄ましても、聖人の口をついて出る言葉は、なまんだぶ・なまんだぶと、南無阿弥陀仏のみ名を絶えることなく、となえるご様子でした。こうして、11月28日、お釈迦さまの故事にならい、ついにお念仏の声とともに、おいのちを終えていかれました。」
この『御伝紗』のお言葉ですが、覚如上人ちょうど20歳、父覚恵法師とともに親鸞聖人が20年滞在された御旧跡の関東地方を訪ね歩き、直に出遇われた遺弟のお言葉を見聞きする事2年。 その感動に胸躍らせ帰京され、2年程でまとめられたものであります。ちょうど親鸞聖人の33回忌法要をお迎えされた時であります。
この事は、私たちに何を教えて下さっているのか。最晩年、世事をまじえず、世の中の事を云わずとありましたが、もっと云えば、過去の苦労話や、自慢話をされなかったと云う事です。だから謙虚で我慢強く偉い人と云う事を云われているのではありません。仏恩のふかきことをのぶとあります。つまり、辛いことや苦しい事を通して、何を見み、何に出遇うのか。親鸞聖人は仏法に遇う事ができた、仏さまの教えを聞く事ができたと言われていると、覚如上人はいただかれたのです。
迷わぬものに救いなしと言う言葉を教えていただきました。
親鸞聖人のご生涯をたずねてまいりましたが、決して順風満帆の人生ではなかった。むしろ、思わぬ出来事にあい、思い惑いしながら生きぬかれた。そして何よりも、その度ごとにお念仏の教えにかえっていかれたご生涯でありました。
迷わない様に、転ばない様に気を付ける事も大切ですが、迷っても、転んでもそこから起ち上がって生きていける世界を教えていただく事であります。ありがとうございました。