ラジオ放送「東本願寺の時間」

髙橋 法信 (大阪府 光徳寺)
第一回 特別養護老人ホームで音声を聞く

 おはようございます。お釈迦さま誕生の話を通して、私たちが生まれたこと、生きていることの意味について尋ね、そこから、私と私を取りまく世界の、日ごろの心を確かめたいと思います。
 私は二十年ほど前から老人ホームに、月に一度、法話のために巡回しています。そこでは私は話すというより、学ぶことのほうが多いのです。今回は、そこでの会話などから、なぜ若いときは楽しく歳をとるとダメになると考えてしまうのか、お釈迦さまの教えに照らして、いのちについて考えてみましょう。
 例えば、工場をいくつも立て、従業員の結婚式の仲人や子どもの名付け親にもなった。自分の子ども達も敬意をもって慕ってくれ、仕事に精を出していた。しかし、歳をとって家にいると、小さな孫から「うっとうしい」といわれ、家族でそんなことを話しているかと思うと気持ちが塞がってしまう。
 人間、役に立つ間は重宝されるが、役に立たなくなったら使い捨てられると思ってしまう。老いるだけでも不安であるのに、厄介者扱いをされたら生きてはゆけません。ご老人の置かれている現実は、ありのままの自分をそのまま、えらばず、きらわず、みすてない、そういう存在の大地がどこにもない本当に安心して居れる居り場がないという、社会全体の問題であると思います。
 さて、お釈迦さまが生まれて七歩あるいて「天上天下唯我独尊」とおっしゃった。まず人間の生き様を六つに分けて、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの道。六道輪廻というのは、ぐるぐる回ってその六道からでることができない。しかし七歩というのは、六道輪廻はなくならないけれども、それよりも大切なことに目が覚めた。六を一歩超えた七歩です。
 「地獄」というのは競争社会。現代そのものではないかと思います。「餓鬼」というのは、食べても食べても、儲けても儲けても、満足することが出来ない。「畜生」というのは、エサをもらったら尻っぽを振ってついてゆくような、従属するような姿。「修羅」というのは、自分が正しいという思いが強いために、人に会うと、たちまち修羅場となってケンカとなる。「人間」というのは、良かった悪かったで一日が終わる。良かった悪かったで一生が終わってしまう。「天」というのは、何でも自分の思い通りになる世界、魔王になるということで、思い通りにならないとすぐにブチ切れてしまうということでしょう。
 こうして人間は、誰もが六歩という六道輪廻、六道をぐるぐる回って、そこから出られないものであるが、それよりも大事なものが見つかったというのが七歩です。それが「天上天下唯我独尊」なのです。
 「天上」というのは時間の長さ。オギャーと生まれた赤ちゃんの時も、異性にあこがれた青春時代も、結婚して子育てしたときも、また、老いて人の世話になる時も、その人であることに変わりがない。
 次の「天下」というのは場所の広さ。日本で生まれても、韓国で生まれても、イラクで生まれても、またアメリカで生まれても、どこで生まれようと、一人も漏らさず誰も皆。
 「唯我」といのは無条件で私ということ。私たちの日常は、すべて良し悪しの条件付きで、がんじがらめになっている。若いときは良いが、歳をとったらあかん。社会に役立つときはよいが、役に立たないとダメ。元気なときは良いが、病気になると、つまらんと思ってしまう。そして「独尊」というのは、無比。比べることの出来ない、唯一の個性的な存在であることです。お経には「無有代者」とあって、他人に代わってもらうことも、代わってあげることも出来ない。自分が自分の人生の責任者であることを教えています。たとえ世間が人を見捨てることがあっても、自分で自分を見捨てることはない―、そういういのちを、いま生きてるんですね。
 社会に役に立つか立たないかという条件にばかり気を取られている私たちは、一人の人を、一人の人として見なくしているのです。私と私を取りまく世界そのものが、仏教的な意味において、人でなくなっていたのだなあ、と目覚めさせてもらう、そういう大きな御縁をいただいたことです。

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