お早うございます。本願寺第8代蓮如上人のお文、お文とはお手紙のことですが、そこに「人間の浮生(ふしょう)なる相」とあります。今週と来週は、そのことについてぼく自身の体験を通してお話したいと思います。
ぼくの住む大阪市生野区は人口十五万人。そのうち約四万人が、在日韓国・朝鮮の人たちです。その人たちが、なぜ日本におられるのか―ぼくの小さい頃、考えたこともありませんでした。なぜなら、ぼくが生まれる以前から、その人たちが居たからです。たいがい日本名を名のっておられて、どのひとが朝鮮人かわかりにくかった。1910年、明治43年に「日韓併合」が起こって以後、連れてこられた人たちです。日本に労働者として連れてこられた「間接連行」と呼びます。また、十五年戦争になってから強制的につれてこられた人たちは「強制連行」と呼ばれています。―こうした歴史を、学校でも、家でも教えられた記憶が ぼくにはありません。昨年は、生野区の民族学級が始まって60年目、「日韓併合」が起こって100年目です。このことを考えていかねばならぬ大きな機縁をもらっていると思うのです。
小学校の卒業式のとき、先生方は卒業式の準備で講堂にいって、ぼくたちは自習時間でした。このときある女の子が朝鮮名を名のったのです。なぜ名のったのか、あとで知りましたが、彼女のお母さんは、おそらく強制連行でつれてこられて、学校に行くことができなかったのでしょう。それで、学校に行きたいというのです。でも、そのお母さんが来ると、すぐ朝鮮人と分かるから、あらかじめ名のったのです。その当時の朝鮮人のお母さんはコムシという先の尖がった靴をはいています。言葉の濁音が難しいので、五十円を「こちゅうえん」と言いました。そのお母さんは、せめて卒業式のときだけは行きたいということで、女の子は先祖代々の苗字―つまり本名をなのったのです。
その時、心無い周りの子どもたちが女の子の周りで「ちょうせん、ちょうせん」とはやし立てました。その子は気丈夫な子で、泣きません。しかし、とうとう泣き出したら、また、「ワーワー、泣いた、泣いた」と、はやし立てるんです。その時です。ひとりの男の子が机を叩いて、「お前ら、朝鮮のどこが悪いんじゃ」と泣きながら怒鳴ったのです。「同じように学校にきてな、同じように勉強してな、同じように給食を食べて、朝鮮のどこが悪いんじゃ。おれも朝鮮じゃ!」と怒鳴ったんです。
その子とぼくは、幼稚園から小学校六年生まで、ずっと一緒に遊んでいました。ボーイスカウト、軟式野球、アイススケートも一緒で、お寺でギターも絵も習いました。じつはその子が「おれも朝鮮じゃ」と名のったんです。ぼくは、本当ににびっくりしました。その彼は、日本名では川本在都といいました。
ぼくは川本と遊んでいるとき、朝鮮や韓国の在日のこどもたちをさして、「あの子らと遊んだらいかんぞ。あいつらは普段はおとなしいけど、おこったらこわいぞ。」 などと言っていたんです。川本は、どんな思いで聞いていたかと思います。
よく考えてみますと、そんな言葉は生まれ出たとき持ってきた認識ではないはずです。親や社会の中で持たされ、はやしたり、歌う側に回っていく。「業」が織り込まれていくのです。
そういうものがはじめに言いました「浮生なる相」、これは浮くという字と、生きるという字で浮生、相は木篇に目。つまり生き様。世間という川の水面を浮いて生きている私たちの生き様そのものを言います。「私が」「私が…」と言うてみましても、じつは社会の中で刷り込まれてきています。そういうものを、「私(われ)」として、われわれは生きているんではないか。この続きは、次回お話しします。