ラジオ放送「東本願寺の時間」

髙橋 法信 (大阪府 光徳寺)
第二回 田口君と その1音声を聞く

 お早うございます。
 ことしは親鸞聖人が1262年(弘長二年)に亡くなられてから、749年目で、仏事でいう750回御遠忌の年です。
 この750回御遠忌を迎えたということで、私どもは親鸞聖人から何を願われているかを、より深く考える年でもあります。
 ところが親鸞聖人の言葉というのは、難解な言葉が多いんですね。お寺の法座で、よく聴いたり言ったりする中にですね、「今日のお話は難しくて、よく分からんかった」とか「よう分かった」いうものがあります。この、分かる、分からんというのも、実はこの私が言っているんですね。まあ、世間話をし合ってるぶんには「分からん」ということはあまりありません。
 親鸞聖人はたくさんの和讃を詠まれました。和讃というのは、仏様の教えを和らげ、讃えるという意味です。親鸞聖人の晩年の和讃に、こんなものがあります。
 よしあしの文字をもしらぬひとはみな
 まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがおは
 おおそらごとのかたちなり
 (もう一回、読む)
 最初これを読んだとき、親鸞聖人は変なことをおっしゃるなぁ、と私は思いました。それは、生まれてから今日まで持ってきた私の価値観―言いかえますと後生大事に持っている私のモノサシに、そういうものに全く合わない言葉であるからです。どれだけ日ごろの心で考えても分からんし、周りに尋ねても私と同じように「変な言葉やなぁ」と言うだけです。
 そこで私は、この親鸞聖人の和讃を、「問い」として温めようと思いました。不思議なことに「答え」として、それを持っておるときには考える必要もなかったのですが、「問い」として持つようになると、生活のあらゆるところで考えるようになりました。
 そんなとき、京都の専修学院という親鸞聖人の教えを学ぶ学校の同窓生が結婚しました。その披露宴が京都でありました。私の座った真向かいの席に、専修学院で共に学んだ友人、なつかしい田口君がおりました。披露宴の乾杯が始まりました。
 ところが、どうも田口君の様子がおかしい。目の前のグラスを手で探しているのです。田口君は、もともと生まれたときから片側の目が見えず、もう一方も視力が0.01だった。しかし日常生活では、特別そう気にかかる状態ではなかったのですが、その日、それまで見たことのないような動作をしているので、休憩中に、「どうしたん?」と尋ねると、彼は席の後ろから白い杖を出したのです。
 「いつから?」「うん、旭川にいたときから」というのです。彼がある日目覚めてみると真っ暗で、まだ夢の中だと思った。次に目覚めても真っ暗で、周りの人に「まだ夜は明けてないの?」と聞くと、「もうとっくに明けている」と。
 おかしい。何も見えない―と不安な気持ちで眼科に連れて行ってもらったところ、「田口さん。あなたの目には、光は二度と戻りません」といわれたそうです。
 田口君はそれから毎日、腹が立って、「僕が何、悪いことしたんや」と思って暮らした。腹を立てても、どうにもなりません。
 それから悲しくて、情けなくて、みじめで、苦しくて、堪えられなかった。「そうや、死のう。どうしたら死ねるか、いつ死ぬか」と、死ぬことばかり考えたといいます。そのようなとき、ふっと田口君が思い出したのが、以前に行っていた学習会のときの先生の言葉だったといいます。この続きは、次回お話しいたします。

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