ラジオ放送「東本願寺の時間」

髙橋 法信 (大阪府 光徳寺)
第六回 いのちからのメッセージ音声を聞く

 お早うございます。今年は親鸞聖人の750回御遠忌の年でありまして、その御遠忌テーマが「今いのちがあなたを生きている」という少し分かりづらいテーマでありますが、このテーマについて今日は私なりに考えてみたいと思っています。
 今年の三月十一日におこった東日本大震災によって一万五千人以上の尊い命が奪われ、未だ行方不明の方も多数おられます。自然の力は私たちの想像をはるかに超えて、自然でさえも支配できると自惚れていた人間の傲慢な心を打ち砕き、原子力発電所の事故という大きな問題は、便利さを追求してやまない私自身の生活を、根本から問い直すことになりました。そんな中で「今いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマのもとで、法要をおつとめしました。宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要は、無常なるいのち、つまり常でないいのちを生きている私たちであることに深くうなずき、あらためて賜ったいのちであることに気づかされ「いのち」ということが本当に問われる機縁となりました。
 私のお預かりしているお寺に15年にわたってお話しにきてくださっていた大谷派の僧侶で和田稠という先生がおられました。先生はご自身の戦争経験がおありで現代社会で起こっている問題を通して、現代に親鸞聖人の教えを明らかにしてくださったお方です。その著書である『信の回復』は大谷派では、今でもよく読まれています。
 その先生がお話のはじめに必ずおっしゃられる言葉が「御縁を頂いて、またこうして今年もみなさんにお会いすることができました。そう思うとなにかこうお一人お一人がお懐かしいですね」と。そしてまた帰られてからお礼状を下さり、その分の終わりには「おいのちお大事に、お懐かしいことです 稠」とありました。
 聞きなれた挨拶であり、見慣れた文章であって、丁寧な言葉であり、丁寧な文章であると思っていて、そのことはそれほど気にもならなかったのですが、身内の死に出遇い考え出したのです。
 先日67歳でなくなった私の兄の49日の法要を迎えるまえに、ふっと先生の言葉がよみがえったのです。「おいのちお大事にお懐かしいことです」いのちに「お」という一言を入れてあるのは何も丁寧にそうおっしゃったのではなく、いのちを拝んでおられたのではないのか?そして「お大事に」とは本来帰るべき「いのちの故郷」を見失って生きている私に「おまえは何を拠り所として生きているのか?」という問いかけでなかったのか。そして「お懐かしい」とは亡き兄との思い出を思い出だしては懐かしさが込み上げてくるのですが、それだけではなく、その家族を育んでいる世界、つまり私を育んでくれた「いのちの故郷」を思うときに使われた言葉ではなかったのか、と。
 普段見慣れたために見過ごしてきた文字が、聞きなれたために聞き過ごしてきた言葉が、何でもないと思っていた私に深さと広さを、教えてくださるために繰り返し繰り返し示してくださっていたのでありました。
 その様に思い直して見ますと、未だにいのちよりも、経済のほうを重視し、いのちよりも安定した電力を求めてやまない私たちの姿が見えてきます。
 和田先生の言葉には「いつまでもいのちを傷つける生き方からいのちを育む生活に目覚めよ、あなたのいのちと思っているいのちはあなたのものではない、あなたの思いを超えたいのちそのものだ、そのいのちを育む生活に帰れ」と仰っているように響いてくるのです。
 亡き兄や大震災で亡くなった方々のいのちから、又私たち自身のいのちから、又、私たち自身のいのちから、「いのちの故郷」に帰れ、と願われているように思えるのです。
 この度の御遠忌のテーマ「いまいのちがあなたを生きている」は、価値観や民族の違い、又、宗教を超えた「いのち」からのメッセージではないでしょうか。

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