ラジオ放送「東本願寺の時間」

髙橋 法信 (大阪府 光徳寺)
第五回 幼友達との再会 その2音声を聞く

 先週は自身が在日韓国朝鮮人であると告白した小学校の友人の思い出をとおして、本願寺第八代蓮如上人のおっしゃる「浮生なる相」という言葉について考えました。今週も引き続きお話いたします。
 さて、しばらく前、友人が二人、ガンで亡くなりました。自分にはそんな兆候はないとタカをくくっていたが、あるとき、喉に異物感ができました。食欲がなくなり七キロも痩せました。
 連れ合いが「お父さん、おかしいで」と言って、むりやり僕を病院に連れて行きました。
 先生はどうも「胃の出口に大きな出来物がある。胃カメラを飲む必要があるので、いい先生を紹介します」と。行きたくないので、僕は紹介状を置いてきた。すると後日、先生が電話で「紹介状を李クリニックの院長先生に送っておいたから、その日、時間に遅れたらあかんよ」と。
 それで、しぶしぶ連れ合いと行きました。李先生は「ははあ、これは逆流性食道炎です。残念ながらガンではありません」というのです。変なこという医者やなあと思いました。そして「この薬を飲んだら治ります」と。「じゃさいならー」と僕が帰ろうしたら、「高橋さん、もう一遍、座ってください」あれっまだ悪いとこあるんかいなと思ったら、「僕をみたことないですか?」と医者が言うんです。「いえ、李先生は知りません」「川本いうたら?」「川本は僕の小学校時代の友達です」と応えました。「川本アリトいうたらどや?」「川本アリトいうたら、僕の親友です。いや!全然違います。別人です」「お前…」と、医者が今度はお前というんです。初めて会う人間にお前と言うなんて、失礼なやっちゃと思いました。「お前、のりべえやろ」と医者が言う。のりべえというのは、川本アリトが僕につけたあだ名なのです。その人しか知りません。「え?お前、川本?」と僕が言うたら、とたんに連れ合いが「先生が川本アリトとおっしゃるんですか。うちの三番目の子に、先生のアリトをもらって付けたんですよ」。こんどは向こうがびっくりです。
 後日、改めて会いました。李先生―李君は、僕に聞くんです。「それはそうと、お前、なんで俺の名を、子どもに付けたんや」「じつはな、小学校の卒業式のこと覚えてるか?在日朝鮮人の女の子がいじめられてたとき、『おれも朝鮮や、朝鮮のどこが悪い』と、お前、机たたいて怒なっとったやろ」「よう覚えてる」と李君。「あの時ぼくは恥ずかしいてなぁ。申し訳のうて、あの時のこと忘れたらあかん、そしてお前のように正義感の強い人間になってほしい。そういうことから息子をアリトという名前をつけたんや。お前のアリトは存在の在に都やけれども、うちの子は存在の在に人、ここに人ありで在人にさせてもらったんや」「なるほどなぁ・・・あの卒業式のこと、お前40年も引きずっとったんか?」「毎日おぼえてる訳やないけど、その名前の響きの中に、やっぱり思い出すことあるわ」。すると李君は、「人間はやっかいなもんがある。もし立場が入れ替わっとったら、俺も同じことを考え、言うとったかも分からん」。
 このことは、仏陀の縁起の法則、すべてのことは縁によって起こる。育てる側によって育てられる側の価値観も、どのようにでも変わる。そういうあり方が"浮生なる相"といわれるのでしょう。
 李君は続けて、「一番大事なことは、宗教も違う、国も違うけれども、お互い今、生きて在るということや。このことだけは外すことは、できん。医者してたら、外国の人も、イレズミの人も、女も男も、老いも若きも、みんな来るわ。みんな、お一人のお命や。そのことを、生きる基本にして忘れたらあかん」と、彼の一言が、とても重いものでした。
 蓮如上人がおっしゃる"浮生なる相"の人間、これは浮くという字と、生きるという字で浮生、相は木篇に目。人の世の定めのないありさまを言います。その"浮生なる相"の人間であれば、誰でも時代・時代を縁とする、そのような、時代の考え方に刷り込まれていくということ。
 そして、そのような自分として、自覚するということ。一幼友達との再会を通して、僕はまた、教えられました。ありがとうございました。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回