ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤場 芳子 (石川県 常讃寺)
第二回 「3.11から思うこと」その2音声を聞く

 私が小学校1年生の理科のテストの時のことです。「イチゴはいつとれますか」という問題が出されました。みなさんだったら何と答えますか。私は自信をもって「冬」と書きました。なぜなら私にとっては、イチゴと言えばクリスマスケーキの上に乗っているあのイチゴだからなのです。しばらくして先生から返ってきた答案には大きくバツがついていました。恥ずかしながら、私はその時初めてイチゴは夏の果物だということを知りました。1954年(昭和29年)生まれの私はいわゆる高度経済成長の頃に中学、高校時代を過ごしました。夏の果物を冬に食べるということが価値のあること、豊かな暮らしの象徴のように思えた時代でした。いちごだけではありません、今は季節を問わずいつでもいろいろな食べ物が食べられます。でもそのためにはとてもたくさんのエネルギーを必要とします。
 3月11日、東日本大震災にともなう原発事故があった時に、私はテレビに釘付けになっていました。その中のある被災者の男性のことばが今でも忘れられません。「原発のおかげで東京に出稼ぎに行かなくてよくなったんだ」と。田舎では現金収入を十分には得られないから、父親である彼が都会に出て働かざるを得なかった。だから家族がバラバラにならずに暮らせるようになったのは原発のおかげだというのです。それを聞いて私は自分を安全な場所に置いて、原発で働く人を批判することはできないと思いました。彼と同じ立場だったら私も家族のためにそういう選択をするかもしれないからです。でも、「それでいいのだ」と全面的に賛成とも思えませんでした。なぜなら私たちが24時間いつでも電気が使え、便利で快適な生活が送れるのは実は一部の人たちの危険と背中あわせの労働の上に成り立っていることを今回の原発震災を機に知ってしまったからです。いえ正直に言えば、私は20年も前から知っていました。でも本気で考えてこなかったのです。恩恵だけは受けながら、どこかで「他人事」にしてしまっていたのです。本当に恥ずかしいことです。
 自分が1番可愛いくて他人を犠牲にしてでも自分を大事にしたい、という残酷な一面を私たちは持っています。仏教ではそれを我欲、自分に対する執着と言います。でも、それと同時に自分だけが抜け駆けをして幸せになっても、それは本当の幸せではないことにも私たちは気づき始めているのではないでしょうか。『阿弥陀経』というお経には極楽世界が描かれていますが、その中に「共命鳥」という鳥が出てきます。身体は1つで普通の鳥と変わらないのですが、頭が2つあります。極楽に来る前、この鳥は自分の声の方がきれいだとか、自分の意見の方が正しいとか言ってケンカばかりしていました。ある日、毒をもって相手を殺そうとして自分も苦しくなり、ようやく自分のいのちは自分のためだけにあるのではないことに気づいたのだそうです。この鳥とは一体誰のことでしょうか。自分が、自分がと声を張り合って主張し、他者との関係を見失っている私たちと似ていないでしょうか。共に生きるということばは知っていても、実際にそうなるということはそう容易なことではありません。でもだからこそ、「共に」という世界が願われているのだと思います。
 傷つけ合う世界ではなく、共に生きる喜びを歌う共命鳥の声を子どもたちに届けることが、今、私たち大人に求められているのではないでしょうか。

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