ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤場 芳子 (石川県 常讃寺)
第三回 鑑定する心音声を聞く

 ご存知の方もおられることと思いますが、自分が持っているお宝を専門家に鑑定してもらう番組をやっていました。ニセ物と鑑定された人が頭をかくシーンがありました。私も笑いながら気楽に見ていたのですが、よくよく考えてみると私たちも日常生活の様々な場面で鑑定したり、鑑定されたりしているのではないでしょうか。例えば、子どもの学校の先生に対して、当たりか外れかなんて思ったことはないでしょうか。正直に言って私はあります。お坊さんがする法話もひょっとしたら「今日の法話は良かった。いや、いまいちだった」と鑑定されているかもしれません。お念仏についてはどうでしょうか。自信をもって南無阿弥陀仏と称えている人のお念仏は有り難そうに聞こえて本物のように思えます。中には「自分のお念仏はあの人に比べてまだまだだな」と劣等感を抱いてしまう人もいるかもしれません。 私の住んでいる北陸では昔から「空念仏」ということばが伝わってきました。実の入っていない空っぽの念仏ということで、それは信心のともなわない念仏はダメだという意味になってしまうのです。では、一体誰が鑑定するのでしょうか。そもそもお念仏は鑑定できるのでしょうか。
 私たちは本物と偽物、あるいは○と×、優劣、勝ち負け、損得などをすぐに判断してしまいます。無意識ではありますが、「判断できる私」だと思っているからできるのです。自分が1段も2段も上に立っていることになります。このように物事を対立して2つに分けて考えることを2項対立または2分法の考え方と言います。『正信偈』という親鸞聖人が書かれた詩の中に、インドの龍樹という方が確かめられた大事な事柄として「悉能摧破有無見」、「悉くよく有無の見を摧破せん」ということばが出てきます。有無とは有る無しと書き、「見」は意見の見です。これが先ほど言った2項対立の考え方です。例えば、赤ちゃんは母乳で育てなければならないと考えると、ミルクを与えることに後ろめたさを感じてしまいます。1人目の子どもを産んだ時の私がそうでした。母乳が足りなくてミルクを足すことは悪いこと、母親失格だと思ってしばらくの間、精神的に不安定になったほどです。また、男は大黒柱となって家族を養わなくてはならないと考えると、給料が十分でなかったり職を失った時に「自分は価値がない」と落ち込んでしまいます。人生は「こうあるべきだ」と考えた通りにはいきませんし、むしろそうならない方が多いのではないでしょうか。そんな時、「こうあるべきだ」という考え方が他人や自分自身を縛ってしまうのです。こんな苦しいことはありません。唯円という方が親鸞聖人のことばを書かれた『歎異抄』には「煩悩具足の凡夫、家宅無常の世界はよろずのこと、みなもってそらごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とあります。これは世の中は諸行無常で念仏だけが本物だという意味ではありません。「こうあるべきだ」と信じ込んでいることに対して、「それは本当ですか」という問いかけであり、それがお念仏のはたらきなのです。
 幸いなことに南無阿弥陀仏には値段がつけられません。鑑定不可能です。形がないので、割れたり壊れたりする心配もありません。親鸞聖人が86歳の時に作られた詩に

「浄土真宗に帰すれども 真実の心は ありがたし 虚仮不実の わが身にて
 清浄の心も さらになし(真宗聖典p508)」

というのがあります。私なりに要約してみますと、「浄土真宗に帰依したけれど自分には真実の心はないし、不誠実で清らかな心もさらさらない」ということです。本物を手にしたい、本物になりたいと思う私たちには不思議な話しですが、浄土真宗に帰したからこそ自分の本当の姿、つまり「自分は本物ではない」と親鸞聖人は言い切れたのです。それがお念仏の功徳だと言われています。

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