ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤場 芳子 (石川県 常讃寺)
第五回 私は何者か音声を聞く

 私の住んでいるお寺では月に1回「子ども会」をしています。どんなことをしているかと言うと、まずお参りの前に鐘をつきます。次にピアノを伴奏に「真宗宗歌」を歌います。それから親鸞聖人が作られた『正信偈』という詩を読んで、お勤めをします。子どもたちが初めてお寺に来た時には、一行ずつ繰り返して練習しましたが、5年目の今ではそらんじて言える子どももいるほどです。その後は短い法話をします。ある日のことです。「悪人ってどういう人のことだと思うか」と夫が質問しました。すると子どもたちは大きな声で「悪い人!」という返事が返ってきました。「なるほど、読んで字の如く悪い人か。普通はそう考えるね。でも悪人というのは悪い人ではなくて、悪いことをした人のことなんだよ。君たちの中にはお母さんのお財布からお金を盗んだことがある人がいるんじゃないかな。友達にいじわるをしたことのある人もいると思うけど」と言うと、「うん、あるある」と正直な反応が返ってきました。「悪人を悪い人だと言うと、どこかに悪い人がいるみたいに思うけど、そういう特別な人がいるわけじゃないんだよ。悪いことをした人という場合には自分も含まれるんだ。この違いがわかるかい?だから自分と無関係のことじゃなくて、悪人は自分のことなんだ」「ふ~ん、わかった!」と子どもたち。どこまでわかったかどうかはわかりませんが、子どもの素直な心に私の方が教えられます。
 自分自身が悪人であるということを自覚することは大人にとっても簡単なことではありません。先日お参り先である女性から質問されました。「阿弥陀様って悪いことをした人も救ってくれるのですか」と。私は「ええ、南無阿弥陀仏と称える人はどんな人もみんな救うと誓ってくれています」と返事をしました。すると彼女は「それはずるいと思います。だって善いことをした人が救われるならわかるけれど、悪いことをした人も救われるなんて納得がいかない」と言うのです。なるほど、理屈では本当にそうです。彼女はとても素直で優しい人なので自分を悪人だなんて思えないのは無理もないかもしれません。
 『歎異抄』という親鸞聖人の言葉を唯円という弟子が耳の底にまでとどまっていたものを書いた書物があります。その中の第13条に「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉がでてきます。縁が整ったら人間はどんな行いもするということです。例えば殺人事件が起きると犯人はとても恐い人だと想像してしまいがちですが、生い立ちや環境、友人関係など、様々な縁によって初めて事件が起きるのです。「いかなるふるまい」というのは悪い行いだけでなく善い行いのことも含みます。今、穏やかな顔をしていてもそれはたまたまそういう縁が整っているだけで、いつなんどき阿修羅のような形相になるかもしれない危うい私たちなのです。
 心理学の本を読んでいたら、人間は被害者意識がほとんどなのだそうです。私たちはよく愚痴を言いますが、愚痴をいうというのも自分が被害を受けていると思うからだそうです。そして私たちは人に追いかけられる夢を見ることはあっても、人を追いかける夢を見ることはめったにないそうです。夢の中まで被害者意識のかたまりだというわけです。被害者意識というのは「自分は悪くない」と言ってどこまでも自分を肯定していこうとする姿です。
 お寺に集まった子どもたちからは時々思いもかけない質問をされます。その一つに「お寺ってなんでこんなに広いの」というのがあります。こういう単純明快な質問は大人はしません。私はどぎまぎしながら、頭の中のコンピューターを一生懸命に働かせて子どもたちに答えました。「お寺が広いのは仏様のお話を聞く人がたくさん入れるようにだよ」「へぇ、そうなんだ」。それ以上は質問されなくて助かりましたが、もし「じゃあ、仏様のお話をなぜ聞かなければならないの」とさらに尋ねられたら、私は答えに窮していたかもしれません。善人と悪人、被害者意識と加害者意識。私たちのひごろの心では理解できないことがいっぱいあるからこそ、一生かけて聞き続けていくのでしょう。

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