私は6回、お話しする時間をいただきましたが、今日はその最終回です。解剖学者の養老猛司さんが書かれた『バカの壁』という本によると、自分が知りたくないことについては私たちは耳をふさいでしまう傾向があるのだそうです。「知りたくない」と拒絶してしまう背景には「自分は物を知っている、わかっているから聞かなくてもよい」という思い込みがあるのではないでしょうか。
真宗では聞法、教えを聞くということがとても大切にされています。京都の東本願寺の境内に入ると、向かって左側に阿弥陀堂、右側に御影堂があるのはご存知だと思いますが、境内の後ろには同朋会館と研修道場という2つの建物があります。泊りがけで寝食を共にして仏教や真宗の教えを聞き、みんなで話し合うための施設です。私も年に何回か勉強のために出かけるのですが、全国各地からたくさんのご門徒の方々がやって来られ、初めての出会いを毎回楽しみにしています。ある時、私は10数人のグループと2泊3日ご一緒しました。その方たちは地方からバスに乗ってきたので、バスガイドさんも一緒でした。3日目の終わりに、輪になって参加者みんなで感想を述べ合い、最後にバスガイドさんの番になりました。研修中、一言もしゃべらなかったので退屈していたのではないか、反感をもっていたのではないか、私はずっと気になっていました。するとガイドさんは「ここに来て3日間みなさんの話しを聞いていて、私には足りないものがあることに気づきました」とおっしゃいました。私はこのことばを聞いてびっくりすると同時に、なるほど彼女は自分が話すかわりに、聞くことに集中し自分の心と対話していたことを教えられたのでした。阿弥陀如来、法蔵菩薩、本願、帰命など、普段聞かないことばに戸惑ったかもしれませんが、それでもずっと聞いていてくれたのです。そして自分に足りないものがあることに自ら気づいたのでした。人の話を素直にただ聞くことは、そう簡単なことではないと思います。
「自分はわかっている」という思いはもうそれ以上、聞く耳をふさいでしまいます。それを仏教では無明といいます。「明かりが無い」と書くので、暗くて先が見えない状態を想像してしまいますが、そうではなく逆に「これこそが正しい」「こうあるべきだ」という自信たっぷりで、自分には何でも見えているという迷いの姿のことを言います。かたくなに自分の意見にとらわれて他からの意見に耳を傾けない、闇とは気づかないほど深い闇が私たちにはあるのではないでしょうか。一方このバスガイドさんのように何も知らないということになれば、何を聞いても新鮮であり驚きであり、疑問にもなるのです。「自分には足りないものがある」と気づいた時から、それが何なのか探し求めるのではないでしょうか。謙虚さが聞く耳を育てていくのだと思います。
蓮如上人の書かれた『御文』には「それ八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす」ということばから始まるお手紙があります。私なりに要約してみますと、「たくさん経典のことばを知っていても、念仏のこころを知らない人は愚かな人であり、たとえ文字を読めない人であっても念仏のこころを知る人は智慧のある人です」ということです。私たちの中にある「バカの壁」、すなわち「自分は分かっている」「これこそが正しい」という思いを破ってくれるのが、南無阿弥陀仏のはたらきです。ありがとうございました。