今年、平成23年に宗祖親鸞聖人の750回御遠忌がつとめられました。3月11日に東日本大震災が起こり、地震・津波・原発の事故という未曾有の状況の中での御遠忌法要でした。
真宗大谷派は親鸞聖人の流れを汲む教団です。私もこの教団のご縁の深い寺院に生まれ育ちました。大谷派も社会の中にあるわけですから、親鸞の教えを社会にわかりやすく伝えていくという使命があります。今回の御遠忌はテーマとして「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を発信しました。
わかりやすい言葉です。「いま」「いのち」「あなた」「生きている」どれ1つ取ってもむずかしい言葉はありません。しかし全体をみれば聞いたことのない文章です。聞いたことがない文章ですから、むずかしいのですが、そのむずかしさは意味がよくとれないというむずかしさであり、逆に言えば私たちの思考回路にはない言葉だからでしょう。仏教はときとして、私たちの思考にあわない言葉を生み出します。言葉で表現できない真理を言葉で表現しようとするとき、どうしてもこうしか表現できないという言葉が生まれます。
世間の中に生きている私たちに世間を超えた真理を表現しようというのですから、思考にあわないのはあたりまえです。
もし、このテーマを私たちの言葉で普通に表現するなら、「今、私がこのいのちをいきている」でしょう。これならよくわかります。当たり前だと言いたくなります。
「わたし」を「いのち」にかえ、「いのち」を「あなた」にかえただけで、わからなくなるのはなぜでしょう。
ある研修会で、この御遠忌テーマについてみんなで話し合いを持ちましょうということになりました。あるご婦人が「このテーマは私たちの考えていることと主語が違う」と感想を話されました。そうですね、主語がいのちに替わっているのです。むずかしいと考えるのは主語が「わたし」ではないからです。
私たちは物心がついてから「私」を主語にして生きてきました。「これはわたしのもの」「わたしの人生」「わたしの幸せ」「わたしの行為」「わたしの考え」などなど、すべてに「わたし」をつけて生きてきました。そのことに疑いを持ったことはありません。
しかし、「わたし」と言えるのは物心ついてからですので、生まれたことに責任が持てません。生まれた環境や男であるとか女であるとか、どういう親の元で生まれたかなど、わたしを主語に生きる生き方の中にこういう事柄に責任を持つことができません。せいぜい愚痴がでるぐらいです。じぶん自身のことなのに責任が持てないことぐらい、つらいことはないです。
しかしそのつらさや苦悩自体が道を求める心に他なりません。「わたし」が持つ苦悩ならば、消すことも、気晴らしをしてないこととすることも可能です。「いのち」が主語になるということは、消しても消しても消えないものに出会うこと、苦悩するいのちに出会うことなのではないでしょうか。わたしが求めるものではなく、いのち自身が求めるものに目覚めていく、そこに大きな転換があるといえます。
私たちは何を求めているか、すでに分かったことにしています。ですからどうやって手に入れるかに関心が向かいます。しかし本当に何を求めているか、わかっているのでしょうか。
この「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、私たちに主語の転換を求め、私たちが本当に何を欲しているのかを明らかにしています。