第4回となります。
もう50年以上も前の話です。ある方が自分の池に鯉を飼っておられました。ある底冷えのする朝、池の鯉がポカリポカリ浮いて死んでしまっていたのです。見つけたのは近所の方でした。「鯉が死んでいる!」。声を聞きつけて近所の方が集まってきました。「本当だ、全滅だ。しかしどうして死んでしまったのか。農薬でも紛れ込んだか」。皆口々に鯉が死んだ原因を探していました。そこへ持ち主の方が現れました。そして一言、「鯉が死んだのは生まれたからだ」。その方は念仏者でした。
ここには大事なことが語られています。生まれたことが原因で人は死ぬ。病気や事故など、私たちが死の原因と考えているものにはすべて「縁」にすぎないのだと、この物語は語っています。縁となるものを排除すれば、いつまでもいつまでも生きることができると考えたのが、現代社会ではないでしょうか。近代文明は、死や老いや病を排除し、見えなくすることで快適な環境を得ることができました。しかし、排除しようとしても、私たちの足下にあるものが老病死の縁なのでしょう。しかも死の原因が生まれたことにあるなら、いついのちが終わるか分からないのが私たちなのです。明日がわからないのが私たちの本当のすがたです。
この話にはもうひとつ大切な事柄があります。生まれたことで人は死ぬと知ることは、じぶん自身に因が開かれたことであります。私もこの話を聞いたとき、責任を感じました。じぶん自身に対する責任です。死ぬ原因が自分の外でなく内にある。言い訳や責任転嫁のできない人生が自分に与えられたように感じました。
ある場所でこの話をいたしました。聞いておられた若い僧侶が感想を話してくれました。その方のおじいちゃんがガンで亡くなるとき、「自分はガンで死ぬのではない」と繰り返し叫ばれたそうです。そのときは何を言っているのかわからなかったそうです。私の話を聞いて、おじいちゃんは、生きている限り、人間は誰もが死んでいくのだということを伝えたかったのだと気づいたのでしょう。
うちのお寺の周りは畑です。農家を生業とする家庭がほとんどです。あるときお寺の青年部のあつまりで酒を酌み交わしていました。ひとりの青年が私に向かって「俺たち天候に左右されてるもんな」といきなり言ってこられたのです。たしかに天候次第で不作になったり、気をもんだり心を痛めます。1年間積み上げて来たものが一気にだめになることも多々あります。その言葉も私には「縁に振り回されている者に安心がどうしたら得られるのか」と。死で終わる生とは生まれた意義を見いだせないまま木が折れるようにポキッと折れて終わっていく生です。死から始まる生とは、死によって空しくならない生です。仏さまの願いの中で私の生まれた意義をみいだしていく。そのことによってはじめてじぶん自身の人生が道になっているのだと思います。「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを受け取るとき、いのちを生きようとするわたしが誕生するのです。