ラジオ放送「東本願寺の時間」

名畑 格(北海道 名願寺)
第六回 大地を生きる者音声を聞く

 おはようございます。第六回、最終回になります。
 「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマをもとにお話をさせていただいてます。「あなた」と呼びかけているテーマですが、わたしはどんな「わたし」を生きているのでしょうか。近年の3万人をこえる自殺者はこの「わたし」の生きがたさを物語っています。
 わたしのお預かりしているお寺の先々代の住職に名畑以文という方がおられました。わたしがお寺にはいった当初、以文さんの法話テープが残されていましたので、しばらく車の中で聞いておりました。1つの言葉が飛び込んできました。それはこういう言葉です。「逃げ出したくなるような娑婆世界、この自分が、わたしの歩く大地となって下さる」驚きました。長い間この社会もこの自分も牢獄のようにしか感じていなかったからです。それが大地となって、わたしの歩みを支えてくれるものになると言うのですから、驚き以外の何ものでもありません。仏さまの教えを聞くことによって私がいただくものは私自身の歩みなのでしょう。歩みは大地を必要とします。足をおろす場所がなければ安心して歩くことはできません。私たちが抱く不安や怖れは大地を失っていることに由来しているのではないでしょうか。
 この言葉を聞いたとき、驚きの次に自分の中から思い起こされてきたものは、30代半ばで自死していった友人の姿でした。
 「この言葉を聞きたかったに違いない」と私は思いました。友人の死は私の中で「なぜ死ななければならなかったのか」という問いと共に私の中に眠っていました。それが教えの言葉に出会ったとき、はじめて自分の問いに気づかされたのです。友人の問いでもあり、また自分の問いでもあったのです。
 仏さまの教えが自分の心にしっかりと聞こえたとき、問いがひらかれる。これはつまりほんとうに自分が求めてきたものが明確になるということです。言い換えれば、問いが先にあって、教えにたずねるのではない。私たちの自我からでる求めに応じて、求めに合うような教えが聞こえるのではなく、私の自我の求めが破られるという、そのかたちを通して、本当にあるべきものがはっきりとするのでしょう。
 ある方とお寺の境内で立ち話をしていました。「住職、おれ前から疑問に思っていたことがあるんだ。うちのばあさんお寺参りを熱心にしているけど、少しも変わらない。チョットはましな人間になって帰ってくるかと思ったが相変わらずわがままだ。何しにお寺参りをしているのか。長い間このことが疑問だったんだ。この間やっとわかった。変わらなくても、自分のやってることに気づくことがあるんだね。おれ、このことがわかるまで恥ずかしいけど50年かかった」。その方はその時50才でした。
 また15年前に喉頭ガンで亡くなられた方がおられました。舌がボンボンにはれて苦しかったのでしょう。家族の方に水を求められました。一杯の水をグイッと飲み干したとたん、ワーッと泣き崩れました。家族の人が心配して、どうしたのと聞くと、「この水を飲んでとってもおいしいと思った。そのとたん20年前にお寺の旅行で行った広島の原爆資料館の、あの水が欲しくて欲しくて死んでいった人たちのことが甦ってきたんだ。この水が欲しかったんだと思うと泣けてきた」と答えられたそうです。
 大地はどこまでもつながっています。空間だけでなく、時間の中にもつながる大地があります。私たちは様々なことに出会い経験しますが、経験すれば経験するほど、経験の中でものを考え、人を見ていきますから、逆に人と出会えなくなっていきます。経験の物さしで人を計るからです。しかし念仏の教えをいただくとき、出会えなくしている正体を教えられ、本当に人と出会う、出会いが自分の生きる内容となってくれるような道が開かれてくるのだと思います。最後までお付き合いいただきましてありがとうございます。

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