ラジオ放送「東本願寺の時間」

名畑 格(北海道 名願寺)
第五回 二つの恥ずかしい音声を聞く

 第5回となります。
 お寺に住んでいると様々な人との出会いがあります。もう20年近く前のことです。ある方が足の不調を訴えられ、病院に行くと、骨肉腫との診断を受けました。足を切断しないといのちが危ないとのことでした。地位もあり才能もあふれた方で将来を嘱望されていた方でした。入院して切断の手術を受け、とうとう片足がなくなってしまいました。入院中のベットでは足を隠すために大きなタオルケットを用意し、ない足を覆われていたそうです。そしていつも「こんなになって恥ずかしい」と言っておられたそうです。あるとき、奥様が同じ病院で、交通事故にあって片足をなくした、ご主人と同じような状況の中学生に出会いました。不自由な体を持ちながら、いつも明るく、周りをも明るくするような子どもでした。奥様は、主人もこの子に出会ってくれないだろうかと密かに期待しておられたそうです。期待どおり、病院の売店でばったりとご主人とその子は出会いました。一方でこんな自分は情けないと言い、一方は同じ状況を明るく生きている。その二人が出遭ったのです。ご主人はすごく感動されたそうです。出会ってすぐ病院のベットに戻るなり、足を隠していたタオルケットをベットにぶん投げて、怒ったように「恥ずかしい!」と叫ばれたそうです。
 それ以来、その方は片足のない自分を一生懸命に生きられた。あるときはスキーに挑戦されたり、前と変わらないくらいに仕事をこなされました。しかし最後もガンでなくなっていかれました。
 2つの「恥ずかしい」という言葉があります。1つは「こんな自分で恥ずかしい」という自分をおとしめる恥ずかしさです。もう1つはそういう自分全体を恥ずかしいと言いながら、その自分を生きようとする、出発点となるような言葉としての恥ずかしさです。同じ言葉でも内容は全然違います。
 私たちはこの方の2つ目の「恥ずかしい」という言葉を言ったことがあるでしょうか。本当に恥ずかしいとしか言いようのない自分に出遭ったことがあるでしょうか。その方のその方がなくなられたあと、ご自宅におまいりしたおり、仏壇の横にかけてあった俳句が目にとまりました。その方がつくられたものでした。「仏前に愚問愚答の夜長かな」という俳句でした。阿弥陀さまの前にどれだけ座られたのだろう、眠れない夜にひとりで座り続けられ、愚問愚答の繰り返し。答えが見つからないまま、夜が更けていく。しかし目の前には仏さまがおられる。阿弥陀さまの前に座ることの大切さを教えていただきました。
 親鸞聖人750回御遠忌テーマの『今、いのちがあなたを生きている』という言葉、その言葉を聞いたこちら側に、「恥ずかしい」という言葉が生まれるか否かで言葉の意味が変わってしまうと思います。「あなたは少しもあなたを生きようとはしていないではないですか」。そんなきびしい声が聞こえてきます。

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