ラジオ放送「東本願寺の時間」

望月 慶子(兵庫県 浄泉寺)
第二回 「救いとは」その2音声を聞く

 前回に続き「救いとは」についてお話しします。
 私たちが生きている時代社会は、お金さえ出せば何でも買える時代、豊かで平和に見える日々の裏側には限りない欲望にとらわれてきりがない私たちの姿があります。自然環境も人間のエゴのために汚染され、地球上では、いろんなことが起きています。人の命も危ぶまれるようになっています。こんな時代に私たちはどう生きていけばいいのか、方向も見えず不安はつのるばかりです。
 3月11日の地震に津波そして原発事故で被害を受けられた方々は、被災当初はまだまだ悲しみの中にあって、最初は生きていてよかったと思いますが少しすると孤独感や「なぜあの人は死んで、私は生きているのか」と生き残ったという罪悪感で精神的に追い詰められていったりすることがあります。生きることに前向きになりながらも、ふとした瞬間に途方もないむなしさに襲われ、生きていて意味があるだろうかと不安がっておられると思います。実は、私も17年前の阪神淡路大震災で被災した当初は、悶々とした気持ちで何ケ月も過ごしていました。
 生きるということは、どうにもならないことや辛いことに遇っていかなければなりません。仏教では、移り変わっていく現実を無常という言葉で言い表しています。無常とは、常が無い、永遠はないということです。私たちがあると思い込み執着しているものは、決して常にあるものではないということですが、なかなかそうは思えません。
 本願寺第八代門主蓮如上人の御文に、「それ、人間の浮生なるそうをつらつら感ずるに、およそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」と無常なる世界を教えてくださっています。つまり人生はまさかということが起こるということです。私たちは様々な災難に遭います。そんなシャバ世界に生かされているのですが、普段はなかなかそうは思っていません。先のことをいろいろ考えると不安だけど、自分は大丈夫だろうと思って暮らしています。
 でも今回、あらためて、地震・津波と繰り返して、やってくる自然の脅威の前に人間の知恵の限界があることを知りました。人類の歴史はその自然現象の中で生きてきました。でも、決して絶望ではなかったと思います。無常は、はかないのではなく無常だから変わっていくという希望だと思っています。真宗のご門徒さんの歴史は、仏様の教えから絶望を超えて歩んでいける智慧と勇気をいただいて立ち上がってこられました。
 人間を育てるのは、順風ばかりでないということです。逆風こそ人間を育ててくれるものだということです。苦しみは乗り越えるためにあるという言葉もあります。
 このことは、つらいことや悲しい出来事に出遭うと、そのことがうなずけるのではないでしょうか。何の不安も苦しみもなければ仏様の教えを求めることなどいらないと思います。うまくいっている時は仏様の教えは信じられないのではないでしょうか。でも、自分の力でどうしようもないことに出遭う時、仏様の教えが信じられます。いいえ、信じるしかないということです。私たちはちっとも賢くないから仏縁がいるんです。
 絶望の中で「どうしてこんなことになったのか」と思い悩むのでなく、この今をどう引き受けていくのかということです。すべてのことは私にとって必要なことだったということです。だから、「仏様の教えを信じると何かいいことがありますか」と聞かれると「いいことがありますよ。仏様にまかせたら不安がなくなります。本当に辛いとき役に立ちますよ」と答えています。本当に辛いとき、一生の間に人間はどん詰まりの時があります。その時仏様の教えを聞いていると、腹が据わっているというか、この悲しみを抱いたまま立ち直っていくことができます。それは、生死無常を受け止めていくこと。おまかせの世界に頷くことだと思います。決して人生がいやになったりしません。
 安心してこの人生をしっかり生きていけるということかと思います。
 俳人の正岡子規は晩年「さとりとは平気で死ぬことだと思っていたが間違いだった。どんなことがあっても平気で生きることだとわかった」と言っています。私は、救いの言葉と了解をしています。

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