ラジオ放送「東本願寺の時間」

望月 慶子(兵庫県 浄泉寺)
第五回 「救いとは」その5音声を聞く

 今回も「救い」についてお話をします。
 私が住んでいるお寺は、一昨年の11月、隣からの失火で本堂と私たちの住まいである庫裏が全焼しました。
 火事になる一週間前、あるお寺の報恩講で――報恩講というのは、親鸞聖人のご命日を中心として行われる浄土真宗最大の法要ですが、その法要でお話をしてきました。それはこういうことです。「人は生まれた時から自ら選ぶことのできない境遇に投げ出され、まさかと思う様々な苦しみの現実に遭っていきます。そんなシャバ世界に生かされているのですが、その中で私たちは何を願い、何が願われて生きるのでしょうか。
 私は、いただいた命を生き切っていける仏様の教えに出会うことが願われていることで、何の不安も苦しみもなければ仏様の教えを求めることなどいらないと思っています。人間は煩悩があるから迷います。ところが、迷うから悩むから仏様の教えが聴けるんです。悩まなかったら苦しまなかったら仏様のはなしを聞こうという気にもなりません。悩みがあり苦しみがあることが聞いていけるもとになるのです。親鸞聖人が書かれた書物に、『氷と水のごとくにて 氷おおきに水おおし』とあります。煩悩という迷いが大きければ如来の救いもまた大きいということです。これはどういうことかというと、人間の救いは煩悩からくるということです。煩悩が救いだと教えています。煩悩の氷がなければ救いの水はどこからも出てきません。
 人間の持つ欲望は確かに人間の心を曇らせ、とんでもない状況に陥るときもあります。そこで聞法して、本当に煩悩が人間の救いになるのだと、うなずけるまで聞いていくことが大事です。その時、聞いていく心構えというものがあります。それは、何としてもこの教えを聞いていきたいという強い願いが1番大切なんですが、でも、私たちは環境に恵まれていて、いつでも聞ける状況の中にいると思っているので、そのことがなかなか身にしみて思われないことがあります。仏様の教えが身につくかつかないかはそういう熱い願いがあるのかどうかの問題だと思います。でも、仏様の教えを信じても、地震が来れば家はつぶれます。火事にも遭います」と話して帰ってきてから、一週間後に火事に遭いました。
 阪神淡路大震災というつらい体験をしてやっと11年前に本堂が再建されたばかりでした。一昨年の11月明け方にバーンという大きな音で飛び起き、窓を開けると真っ赤な炎が目に飛び込んできました。目と鼻の先にある消防署に隣が火事だと119番をかけ、「すぐに消してくれるだろう」ととりあえず外に出ました。でも、本堂も私たちの住まいである庫裏もたちまち火の海になり、隣からの類焼で全焼しました。もちろん仏具や家財道具も思い出の品の一切合財を失いましたが、不思議なんです。あまり動揺もなく日ごろ聞いていた言葉「心配するな。なるようになる」という言葉が思い出されて落ち着いていました。夫は、「何で焼けたんか簡単やで。寺があったから。何もかも無くなってゼロの意味が分かった。なぜか爽やかなんや」と言っていました。アラビア数字は1からの発見ですが、0はインドで発見されました。0の次は当然1ですので、1を生み出す創造の原点としての深い認識は、お釈迦様の思想がその原点にあると言われています。
 夫は本当に何もかも無くしました。膨大な書籍もすべて灰になってしまい、残念がっていないのが不思議なんですが。娘には、「人間生きているからいろんなことがあるんやで」と言い、「大切なもの焼いてしまって今はつらかったり、苦しいやろうけど、この経験は必ずプラスになるから」と話していました。
 私が火事の最中に突然浮かんだ言葉は、親鸞聖人の書かれた書物の中に、「仏様の本願は、この人生の荒波を超えていくただ一筋の道であると。そして、お念仏に生きるならこの人生の悲しいことも、苦しいことも、どうしょうもないことも土壇場に追い詰められても、お念仏の教えに支えられて超えていくことができる」と教えられているものです。
 本当に困ったらまかせる世界のあるということです。仏様の願いは、どうぞ助かってほしいと願われている身だということに早く気付いてほしいということです。
 それは自分に落ち着けることです。私たちはいつも自分に不満を持って生きていますが、その上でも下でもない自分、丸ごとの自分にこれでいいんだと言い切れる、そういう自分になる。それが救いだと思います。

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