ラジオ放送「東本願寺の時間」

望月 慶子(兵庫県 浄泉寺)
第四回 「救いとは」その4音声を聞く

 今回も「救い」についてお話しをします。
 新聞やテレビでは、連日、無残な犯罪が報道されています。どうすればあの悲劇を防ぐことが出来るのだろうかと思ってしまいますが、1人や2人の努力ではどうにもなりません。けれども、ここまで人間の心が荒れてしまったのかと胸が痛みます。あのことに突き当たっては身を責められ、ほとんどおろおろしながら生きているのが私たちの実状ではないでしょうか。仏教ではこの世をシャバと言います。お釈迦様がお生まれになった古代インドのサンスクリット語のサハ、忍耐という言葉で、それから来ている言葉です。つまり仏教では、忍耐こそがこの世であると教えています。
 何の不安も苦しみもないのであれば教えを求めることなどいりません。親鸞聖人はこのような世界を火宅無常の世界とお示しになっておられ、火宅無常の世界とはズバリこのシャバ世界なりと言い切っておられます。火宅とは、不安で思い悩み迷う世界を火のついた家に例えています。無常とは移り変わっていくということで、自分も命もすべてのものは常に同じ形でなく変わり続けています。人間の在り様はこのようにできているのだと、それに目覚めなさいということです。何より頭で理解するのでなく、本当に無常な世の中だと身で受け止めることです。優しい言葉で言いますと、世間なんか信用できないよ、ということかと思います。
 私たち人間の苦しみの原因は 煩悩がいっぱいで自分の思い通りにしたい、もっと幸せになりたい、苦しまない人間になりたいと思うから苦しいのですが、親鸞聖人は苦しみが救いの種だと教えてくださっています。苦があるから助かりたいという願いが出てくるので、苦しみのないときは、助かりたいと思いません。
 人間は何かによらないと生きていけないのですが、若いときは自分の力で生きていけると多くの人々が考えていると思います。なぜかというと若いときには苦しみの経験が少ないからです。何かに依るというより自分に依ればいいわけで、頑張れば何とかなっていきますから、他に依る必要もないわけです。
 お釈迦様は80歳の時、自分の故郷を思い最後の旅をしておられたのですが、その途中の、インドのクシナガラというところでお亡くなりになったのですが、その時お弟子さんに残された教えの言葉が、「自らをともしびとし、法をともしびとし、他をともしびとするなかれ」というものでした。法とは仏法のことですが、若いときは自分に依るということは理解できるのですが、法によっての言葉が響いてくるのはある程度の人生の荒波を超えてこないとわからないのではないでしょうか。若いときは自分より大きいものを認識できず、自力で頑張ろうとするのが若いときの特徴だと思います。でも、ある程度の年になりますと人間というのは小さな存在だということが少しわかってきます。依るべきものがなければならないことも解ってくるのだと思います。そういうことを考えると年を重ねるということは素晴らしいことなんですね。でも、私たちは、まことの依りどころにならないものを依りどころにしていることがあります。お金も子どももなくてはならないものなんですが、移り変わるものは依りどころになりません。今日のように豊かで一応恵まれていると言われていても不安でむなしいのは、本当の依りどころを見失っているからで、助からないということはこのことを言います。自分の力で生きていくとなれば、とても苦しいことに出会ったり、行き詰まったら死ぬことを考えてしまうかもしれませんが、親鸞聖人は、行き詰まったらまかせたらいいと。困ったときは仏様にまかせなさいと教えてくださっています。
 親鸞聖人の書かれた書物の中に、仏様の願いは、この人生の荒波を超えていくただ一筋の道であると。そして、お念仏に生きるなら、この人生の悲しいことも、苦しいことも、どうしょうもないことも土壇場に追い詰められても、お念仏の教えに支えられて超えていくことが出来ると教えられています。本当に困ったら任せる世界があることを思い出してください。仏様の願いは、どうぞ助かってほしいと願われている身だと、そういうことに早く気付いてほしいということです。

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