ラジオ放送「東本願寺の時間」

今泉 温資(新潟県 願浄寺)
第四回 葬儀はどんな意義のある儀式なのか音声を聞く

 先週は、ある医大生から受けた質問についてお話をしました。今回のお話も、その方からいただいた質問です。もう30年も前の問いかけですが、今も大切に思い出しています。
 彼の質問は、「葬儀とはどんな意味のある儀式なのか」ということでした。
 何故、彼がこのような問いを起こしたかは分かりませんが、とても大切な問いかけと受け止めています。なぜなら葬儀は他人事ではないからです。いろんな方にはいろんな受け止め方がもちろんあるけれど、私は葬儀には3つの意義があると言いました。
 1つ目の意義は「永遠なる別れを確かめる儀式・認める儀式」であること。体温も下がり冷たくなり身体も硬直し、どんな大きな体格の方も火葬されると小さな木の箱に納められる。そして、亡き人に呼べど叫べどウンともスンとも返事をしてくれません。永遠なる別れを確かめ、認める儀式なのです。
 歌人の吉野秀雄さんは最愛なるお母さまサダさんを亡くされた折に、多くのお母さまを偲ばれる歌を詠んでおられます。その1首に、

  「こときれし 母が御手とり 
  懐に温めまゐらす 子なれば吾は」

と詠まれました。
 どんどん体温が下がっていくときに、少しでも身体の温もりが戻って欲しいと必死の思いでお母さまの手を懐中に入れられ温められた心情と風景が浮かびあがってまいります。
 私にも同じ経験があります。両親が亡くなった直後、少しでも体温が残っていて欲しいと必死で身体のあちらこちらをさすったことを思い起こします。
 人の死は意識のなくなった時でなく、体温が消えていく時であることだと私は思います。また、

  「在りし日の母が勤行(つとめ)の正信偈
   わが耳底に一生(ひとよ) ひびかむ」

という歌も詠んでおられます。この歌は聞き習うことの姿の大切さを教えています。
 葬儀の2つ目の意義は「死」は決して他人事でないことを学ぶことです。亡くなられた方を見送った私たちもいつかは必ず見送られていく私になっていくのです。これは脅しでもなければ恫喝でもありません。いつかは間違いなく「おくられびと」になることを顕らかに知ることこそ大切なことです。
 本願寺八代の蓮如上人は「白骨の御文」の中で「我やさき、人やさき 今日とも知らず 明日とも知らず」と表現されました。もし、他人事の認識なれば「人やさき 人やさき 私はあとあと」ということになるでしょう。今日、「死」を遠ざけて、見ないように、聞かないように、言わないようにという風潮が強まり「生」のみが強調されますが、今こそ「死を忘れることなかれ」をしっかりと心に刻むことこそ大切な意味があると思います。何故なら本当に「死」を見なければ「生」そのものが曖昧になるか らです。
新潟県出身の金子大榮先生は「およそ、仏道とは死を問いとして、それに応えうる生というものを求める道」と教えてくださっています。死を見て、聞いて、語り、そこからこの世に生まれ、生きる意味を求めてきた道こそ仏教の世界だと思います。人間の命は限りある人生であればこそ、一生懸命に生き、充実した人生を生ききることが教えられてくるのです。
 石川県出身の九州大谷短期大学の教授であった平野修先生は「寿命が尽きて『死ぬ』ことはあっても『友引き』で死ぬことはない」と教えています。
 迷信に惑わされることなく、「死」は誰もが逃れることの出来ない厳粛な事実であることを学ぶことこそが葬儀の2つ目の意義だと受け止めています。
 3つ目については、次回にお話しします。

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