私の父は4年前の1月に亡くなりました。その父が87歳のときに全ての預金通帳を私に預けたのです。私が通帳を確かめたところ、恥ずかしいことですが、思っていた金額より少なくてガッカリしたことがありました。
そのことを開業医をしている友人に言うと、彼は私を一喝するのです。「お前はそれでも僧侶か!思っていたより少ないだと?借金が無かっただけでも喜べ!大体なあ、この世に産んで育ててくれただけでも、既にして充分なる財産をいただいているではないか!お前はそんなことも分からんのか!」と。
今も彼の言った言葉がわすれられません。本当のことを言われると実に辛いものです。しかし、本当のことを厳しいまでに指摘してくれる人がいることは有りがたく思います。
私の住んでいる地域はこの2、30年の間に開発が進み大きく変貌しました。
土地を売却したり貸したりして、裕福なお宅もあります。収入があり財産があることはなんとも羨ましい限りです。しかし、外見では判断できない現状も多くあります。もちろん、全てのお宅とは言えませんが、遺産相続をめぐってのトラブルが発生する場合が多くなりました。「こんなことなれば、財産なんて、お金なんてなかったほうが良かった!昔は貧しいながら家がひとつだった。なのに今はお金はあるけれど、家の中がバラバラになってしまった」と私の膝の上で泣いたおばあちゃんもおられるのです。
もちろん、お金に問題があるわけではありません。悲しいかな、いつの時代でも、お金に執着し、ふりまわされる人間がいるのです。猫に小判と言いますが、哀れ人間はその小判に目が眩むという悲しい人間の歴史があるのです。
お金は本当に有難いものですし、あると助かります。しかし、お金は万能薬ではありません。時には憂いの背景になることを忘れてはなりません。
『大無量寿経』というお経に、土地があればあったで所有している土地のために憂い、また、なければないで自らの土地を所有したいと思ってまた憂う存在だと教えています。
つまり、人間は有っても無くても憂う存在であることが教えられるのです。何かが不足して憂うばかりではなく、足りても憂うのです。
同じ相続でも、遺産相続と仏教を後世に伝える仏法相続は大きな違いがあります。遺産の相続ももちろん大切です。しかし、人の世に生まれ、人間として空しくない人生を教えて下さった仏さまの世界を身を持って伝えていく仏法相続こそ大切なことではないかと私は思います。
「外を満たせば、内も満たされると思っているが、そんなことでゴマカシのきかないところに、人の命の尊さがあるのです」と教えてくださった石川県の松本梶丸先生の言葉が響きます。
本当に満足していく世界を身を持って「今さえ良ければ」「私さえ良ければ」の世界にさよならを告げ、過去と未来に責任を持って現在(いま)を生きぬき、空しくない、手応えある世界があることを後世に伝えていくことこそが、大切な宝になっていくことでしょう。今こそ仏法を相続していくことが求められている時代はないと言っても過言ではないと私は思っています。
念仏詩人浅田正作さんは、
「死ぬことが 情けないのではない。空しく終わる人生がやりきれないのだ」
と言われます。私はこの言葉を心に刻んで生きていきたいと願っています。