山形のお寺の住職をしております、榊 法存と申します。
昨年は地震・津波・原発事故という災害の年でした。しかし、東北の経済拠点はなんと言っても仙台ですので、物資は山形にも届かない状態で、ガソリンや石油には大変苦労しました。
そんな状況の中で支援活動を始めようと思ったのは、ある女性によってであります。その人は、かつてはお寺の子供会にきていた子で、今では東京でばりばり活躍しているキャリアウーマンです。その人を仮名でA子さんと呼ばせて頂きますが、A子さんが、突然お寺にやってきました。交通機関もままならない時に夜行バスで山形へ帰ってきたそうです。それで突然来られて、「KSSで支援活動をしましょうよ」というんですね。(KSSというのはお寺の子供会のことなんですが)
ともかく、いても立ってもいられなくて、会社に休暇を取って帰ってきたというんです。
彼女は、KSSの仲間に連絡を取り合い、パソコンで支援のビラをつくって地域の各家に配ったりして、彼女やKSSの仲間たちはいろいろやってくれました。そのときに言った彼女の言葉「私たちは、支援はいつでも出来ると思っているが、被災者は今日明日の食べ物にも困っている。命は待ってくれません。」と言ったんですね。この言葉は、私にとって今でも忘れることが出来ません。感動的な言葉でした。
浄土真宗の教えに『即得往生』という言葉がございます。これは、すぐさま往生する、すぐさま救われる、ということですね。親鸞聖人以前は、極楽往生といっても未来往生が一般的でした。一生懸命念仏や徳を積んで、そして未来に往生する、と。つまり一生懸命努力をして、その結果浄土に生まれることができる、という考え方であります。
でもそれは、努力できる人の話です。したくてもできない、食べるものも無く、死と背中合わせの境遇で、どうにもならない人々にとっては、未来往生は間に合わないのです。今すぐ救われねば、間に合わないのです。
被災者の人たちは、住む家も無く、食べる食物も無く、そしてあのときは三月なのに雪まで降った寒い日でしたので着る服もないという、まさに衣食住を完全に奪いとられた人々でした。孤立してすぐに避難所には行けず、野山を越えてたどり着いた人などは、一日一日が生死をさまよう日々だったと聞いております。
思えば、親鸞聖人時代も、そういう人たちが京都の町にあふれていたのでありましょう。1185年親鸞聖人12歳のころに近畿に大地震があったそうです。寺社や家屋が崩壊して死者も多数あったといわれております。そんな人々を、今救わずにしていつ救うのでしょうか。若き親鸞聖人の眼にはそういう姿が焼き付けられていったのではないでしょうか。
まさに、今救わなければ間に合わない人々こそが、本当に救われなければならない人々なのでありましょう。そこに、法然上人や親鸞聖人によって『即得往生』の道が開かれてきたのではないかと思うのです。
当時、平安時代のころは、善行や徳を積まなければ往生できないという事が常識だった時代に、ただ本願を信じ念仏を称えるだけで、すぐさま往生できる、と聞かされて、どれだけの人びとが喜びの涙を流したことでしょう。貧しい苦悩に満ちた人々にとっては、善行や徳を積むことなどとてもできません。毎日毎日が苦しみに耐えるだけのその日暮しに、それこそ救いの言葉であったにちがいありません。そのままで救われるという言葉にどれだけ勇気づけられたことでしょう。