ラジオ放送「東本願寺の時間」

榊 法存(山形県 皆龍寺)
第五回 共に救われる音声を聞く

 榊 法存と申します。
 裁判員制度が制定されて、一般の人も裁判に関わらなければならないようになりました。裁判員裁判の話題が、テレビなどで流れますと、万が一、私に裁判員の指名が来たらどうしよう、などと、色々思いめぐらしてしまいます。
 まあ、その場になってから考えればいいことなんでしょうけども、浄土真宗の教えをいただいている僧侶でありながら、善悪の問題に関しては、善を取り悪を切っていくような考えに流されてしまいそうになってしまうのです。どうしても公平さに欠いてしまうんではないか、などと心配したりしているのであります。
 裁判ということで思い出されることがあるんです。それは40年も前のことなんですけど、私の知っている方で、その娘さんが遠くはなれた人と文通しておりまして、そしてその人に会いに行くことになるんですが、そして会いに行って彼に殺されてしまったんです。その後、そのご両親のところに謝罪の手紙と仏画、仏様の絵ですね。獄中に書かれたんでしょう、月に一回ぐらいの割合で毎月送って来たそうです。
 最初は、焼き捨てようかなとも思われたそうですが、娘の供養だと思い、封も切らないで仏壇に入れておいたそうです。そして何十年か過ぎた日、その中を開いてみたら仏画と手紙が入っていた、との事でした。その手紙と仏画を見せていただきました。その手紙と仏画を私に手渡すとき、ぽつりと、「それでも許した訳でないですから」と言われた言葉が、今でも鮮明に思い出されます。
 その言葉には、親としてどうしても許せない情愛と、また心のどこかですでに許している自分があることを気づきながら、そういう自分にもまた情けないと思っている自分同士の葛藤の言葉のように聞こえてきたのです。それは、人間の深い悲しみの言葉でした。
 このご夫婦は長い間苦しんでこられました。その苦しみは、許す心と許せない心との葛藤なのではなかったのか、と思うのです。ということは、このご夫婦は、被害者と言う立場で、なおかつ心のどこかで加害者のことも思っているのではないでしょうか。だから苦しいのでありましょう。この苦しみから救われるには、被害者・加害者が同時に救われるしかないのではないかと、思うのです。
 もし、加害者が死刑になっていたら、被害者の救いになったでしょうか。殺された娘のかたきはとった。それで本当に救いになるのでしょうか。そこには、娘さんが殺された、という事実しか残らないのではないか。恨みをぶつけるものも何も無くなってしまうわけです。それとも、娘も殺されたんだから加害者も死んで、これで‘おあいこ’として、割り切るのでしょうか。
 この判決は死刑では無かったので、それ以上のことは何も言えませんが、被害者であるこのご夫婦の救いというのは、いったい何だったのだろうか、と思えてなりません。
 このご夫婦が心の内を話してくれたのはあの時一回切りでした。そしてその後の人生は、息子夫婦と孫にかこまれながら淡々と人生を歩まれていきました。
 そんなご様子を見ると、そのご夫婦には、憎みながらも「どうか真人間になってくれ」という、悲しくも切ない祈りにも似た願いが、長い時間をかけて、心の奥底に芽生えていたのではないか。そしてそういうことを感じたからこそ、私にも話すことが出来たのではなかったのか。そう思えてならないのです。
 そのような、自分を超えて自分の中に芽生えてくる人間的な願いを、本願と申します。その本願を信じて、生きていくことが、自分と相対する相手と共に救われていく道だと思うのです。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回