ラジオ放送「東本願寺の時間」

榊 法存(山形県 皆龍寺)
第六回 苦しみを越える音声を聞く

 榊 法存と申します。
 つい最近、私の住んでいる地域で、一人暮らしの方が亡くなって、数日経ってから発見されたという事がありました。しかも50代の方で、父親と息子の二人ぐらしでしたが、ようやく父親を老人施設にいれ、しばらく一人暮らしをしていたんですが、突然心臓発作を起こしたらしく、亡くなっていたそうです。その方は独身で、ずうっと親を見てきて、気づいたときにはいい歳になってしまっていた訳です。そういうご家庭は、この方ばかりではなく、私の村にもっとおられます。
 また、今回の震災で、家族がバラバラになったり親や子を失ったりして、残された人々は孤独にも耐えながら生きている人も多いことでしょう。
 しかし今はそういう孤独死などということは、あまりニュースにもならないわけです。ニュースにならない程多発しているのかもわかりませんが、問題として取り上げられなくなりました。
 最近「孤族」孤独の孤に、家族の族と書きますが、「孤族」という言葉も生まれているように、一人暮らしの人が老若を問わず多いことに今更ながら、驚いています。
 仏教では、一切皆苦、といいまして、すべては皆苦しみである、と説かれます。皆さんご存じの、四苦八苦という言葉も、仏教から来た言葉ですが、もう一つご紹介いたしますと、三苦、三つの苦しみというのがあります。これは、苦苦・壞苦・行苦という三つです。
 苦しみを二つかいて、苦苦というのは、私たちの一般的にいやな出来事に出会った時の苦しみですね。また壊れる苦とかいて、壞苦というのは、今回の津波に象徴されているような、愛する人が奪われ、これまで生きてきた家や町までが奪い去られた苦しみなのでしょう。それから行う苦と書いて、行苦というのは、現代の状況に当てはめて考えれば、行く先が見えない不安におびえ苦しんでいるその姿そのものであります。
 ですから、仏教というのは、自分の身の苦しみばかりではなく、社会環境に於いても苦悩から始まるのであります。苦悩から始まるということは、苦悩によって人間が問われるということであります。人間が問われるということは、人間として、どうあらねばならないのかが問われることであります。それを具体的に言うならば、震災の復興の問題も無縁社会・孤独の問題に対しても、私たちはどうあるべきかという問題であります。そしてそれは仏教の課題でもあるということにほかなりません。
 親鸞聖人が出家され比叡山で修行をされている時代、京の都では地震や大飢饉などがあいつぎ、路上にはたくさんの死者が横たわっていた、といわれています。そういう時代社会の有り様を、若き親鸞聖人は目にしっかりと焼き付けていかれたのでありましょう。苦しみや悲しみにうちひしがれながら生きていかなければならない人々にとって、どこに救いを求めていったらいいのか、人間らしく生きていくということはどういうことなのか、そういう問題をかかえて、親鸞聖人は仏教の道を歩み始められたのであります。
 そして、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という法然上人の教えに深く頷かれ、親鸞聖人の生涯の道と確信されていかれたのであります。権力の弾圧にも屈しなかった精神は、自分は苦しみや悲しみに耐えながら生きている人々と共にあるんだ、そういう人たちを絶対見捨ててはいけない、という精神だったんだろうと思います。
 苦しんでいる人を助けたい、という気持ちは大事な事だろうと思いますが、親鸞聖人のお気持ちは、苦しんでいる人と共にある、苦しんでいる人を見捨てない、というところにあり、そのお気持ちこそが、弥陀の本願に帰依したお姿なのでありましょう。

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