榊 法存と申します。
最近の話なんですが、私と同じぐらいの60代の男性がですね、お寺に来られまして、これはお茶飲み話ですが、「最近の親は子供をあまやかしすぎる。だから、わがままになってきた」とかですね、「厳しさが無くなってきたから、皆ひ弱なこどもになってしまっているんだ」などと嘆かれた話をされておりました。どこからそんな話になったのか、覚えてはおりませんが、世間でもよく言われる話です。また、その方のご家庭での、息子夫婦や孫たちとの関係の中で、いろんな思いもあったのでしょう。私は、彼が話されることを、黙って聞いておりました。
それを聞きながら「本当に厳しさが無くなってしまったのだろうか、むしろ優しさの方が無くなってきたのではないか」と、心の中でつぶやいていました。
確かに、最近の親には威厳が無くなり、友達感覚になってきた、と言われます。でも、厳しさだけでいうなら、いろんなところにも残っているわけです。親が厳しくできない分、ほかのものに厳しくしてもらっているだけの話であります。
その方は、言うだけ言うと満足されたらしく、帰られたのですが、私の気持ちは、何かくすぶっていてすっきりしません。私の中では、厳しさが無くなった事よりも優しさが無くなった事の方が重要だったようです。「そもそも厳しさなんて言うものは、親や学校の先生が厳しくしなくても、世の中や大自然の厳しさを教える方が大事ではないか」などとへそを曲げて考えてみたり、「厳しさと優しさとは、裏表の関係かなぁ」などと思ったり、「優しさって一体なんだろう」などと、悶々としてしまいまして、まずは辞書で優しさということを調べてみたわけです。
“優しさ”というのは‘にんべん’に‘憂い’と書きますね。この‘憂い’という字は喪に服する姿を示しているのだそうです。喪に服するということは大事な人を失った悲しみを共有すること。そういたしますと、“優しさ”というのは、死ということで象徴される人間の根本的な悲しみの上に成り立っている事を意味します。
悲しいときこそ、人はつながっていけるような気がいたします。優しさというのは人と人とがつながるということなのではないでしょうか。つながるということは、人と人との間に真実が見いだされる事、これを出会いというのでしょう。嘘で固められた付き合いは出会いではありません。出会いは、相手に真実を見るから出会うんです。そしてその真実が優しさを生むんです。人は真実に触れたとき、優しさを感じるのでしょう。
真実の言葉というのは、優しいのです。
人間というものは、辛い時、悲しい時、苦しい時、そういう時にかけられたひと言によって救われるということがあるでしょう。たった一言でいいんです。その真実の言葉が私たちを救うんです。
ですから、“優しさ”というのは、真実さをいうのでしょう。決して甘やかしではないのです。‘甘やかす’というのは、偽りです。ごまかしなんです。“優しさ”はごまかしではない、真実を見抜く力であります。真実を見抜く、ということは偽りをも見抜くことであります。そして、偽りを見破りながらも絶対に見捨てない、そこに根元的悲しみがあるのでしょう。
本当の優しさとは、真実を見破りながらも、自分の欲得に目が奪われ、嘘で固めている人間を見捨てずに、本当のものに目を覚ましなさい、とささやいてくるものが、じつは優しさなのでありましょう。