ラジオ放送「東本願寺の時間」

榊 法存(山形県 皆龍寺)
第二回 慈悲の転換音声を聞く

 山形の寺の住職をしております、榊 法存と申します。
 昨年の3月11日東日本に大震災が起こりました。この大震災は、私たちの日本の社会を一転させた大事件でもありました。
  困っている人を助けたい、苦しんでいる人を何とかしてあげたい。これは人間の自然な感情かもしれません。震災以前は、「人には迷惑をかけず、自分で何でも出来る自立した人間であるべきだ」という考え方だったのですが、今度はそうではなく、「人に迷惑をかけてもいいんだよ。人間、完全な人はいない。お互いそれぞれ出来ることで助け合って生きて行きましょう」という考え方が広まってきたように思います。
 テレビなど見ていると、たくさんの方がボランティアで行かれますし、私たちの山形では、それこそいろんな団体や組織で、繰り返しボランティアに行かれています。
 私の知っている人ですが、消防隊員で山形から応援で行かれたのですが、その業務は行方不明の方々の捜索活動でした。その方がおっしゃるには、「口では言えないほど悲惨だった」と言われるんです。そしてぽつりぽつりと語られる内容は、まるで地獄絵を思い出させるような話でした。彼は、「ご遺体が見つかるたびに、『助けられなくてすまない』という思いが浮かんでくる」と話してくれました。
 私は、その話を聞きながら、『歎異抄』という書物の一節「自らの力で悟ろうとする人たちの慈悲は、ものを憐れみ、悲しみ、育むことですが、思うように助けとげることは、なかなか難しい」という内容のことを思い出しておりました。
 これをごく簡単に言えば、“自らの力で悟ろうとする人たちの慈悲というのは、困っている人を何とか助けてあげたい。だけど、思うようには助けられない”ということでしょう。それを“聖道の慈悲”と言われております。
 それに続いて、「浄土に生まれて救われようとする人たちの慈悲は、思うがごとく衆生を利益する」と述べられています。それを“浄土の慈悲”と言われています。
 でもこの『歎異抄』の文章は、聖道の慈悲は、思うように助けられないからだめで、浄土の慈悲は思うように救うからいいんだ、というような問題ではないと思うんですね。この文のはじめには「慈悲に聖道浄土のかわりめあり」と前置きされています。これは、聖道の慈悲から浄土の慈悲に切り替わっていく境目がある、ということなのでしょうか。
 私には、この“かわりめ”ということが何なのか、今まではっきりしていなかったのですが、この人の話を聞いて、「かわりめとは、これだったのか」と思いました。「助けられなくてすまなかった」という慙愧の心です。やればやるほど、自分の無力さと絶望が心の中に渦巻いてくるのでしょう。一人たりとも息を吹き返すことのない人々を、泥の中から救い出すとき、どうしようもない気持ちに駆られるとも話してくれました。
 それでは、聖道の慈悲から浄土の慈悲へと転回されるということは、どういう事なのでしょうか。
 人助けに行って、本当に人を思い通りに助けることが出来ない挫折と絶望のなかで、なおかつその救助隊に勇気と力を与えることが出来るものがあるとするならば、それは浄土の慈悲ということになるのだろうと思います。
 この固い決意は、思い通りに助けられない現実にもめげずにやり抜く力であり、その挫折と絶望から解放されるためには、全身を如来に任せるしかないのでありましょう。身を任せることによって、自分の中に固い決意が生まれてくるのでありましょう。
 「最後の一人が見つかるまで、私たちは止めないでしょう」という隊員の言葉に、私は、心から手を合わせずにはおられませんでした。

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