ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邊 学(新潟県 明正寺)
第一回 仏教の喩え その1 縦糸と横糸音声を聞く

 渡邊学と申します。今回から6回にわたり仏教について、特に親鸞聖人が顕かにされた浄土真宗のみ教えに学んでまいりたいと思います。と、申しましても、この時代、この社会に生きている私たちに、仏教はどのような関係があるのでしょう。現実に出会うさまざまな問題に、仏教はどのようなことを教えるのでしょうか。仏教は仏さまの教えですが、仏さまの教えはとても難しく奥深いものがあり、私たちにはなかなか理解しがたいものがあります。だからなのでしょう。仏さまの教えは、多くのたとえを用いて語られてもいます。私のお話は、その喩えをたよりに、仏さまの教えをいただいてまいりたいと思います。
 親鸞聖人が仏さまの教えをいただくのに、とても大切にされたお一人に、中国の善導大師という方がおられます。613年の生まれと伝えられていますので隋、唐の時代、今から1400年ほど前の僧侶です。その善導大師が、経、お経の意味を喩えをもって説明しています。
 お経というのは、織物、布で喩えるならば、縦糸であると。縦糸がしっかりしているからこそ、どのような横糸であっても、その横糸をばらばらにせずに、しっかりと織り上げることが出来るというのです。「経」という字も、布を織る機械、はたおりのたていとの象形からできた文字だそうです。
  では、織物でいう縦糸が「経」であるなら、横糸は何をあらわしているのでしょう。私はこの場合、私たちの一瞬一瞬の、毎日の生活といってよいと思います。頑張ったことや失敗したこと。苦しかったことや悩んだこと。日常の経験や体験が横糸をあらわしているのでしょう。ですから私たちは、毎日毎日、横糸を出し続けているといっていい訳です。経験や体験というと、何か特別な、心に残るようなことのようにも思いますが、それだけに限った事ではありません。毎日毎日が、横糸といってもよいでしょう。
 私事になりますが、私は現在、新潟の小さい寺の住職をしていますが、大学は、工学部を卒業しました。卒業を迎えるに当たり、担当教授に卒業後の進路の報告に行きました。今から30年程前ですから、求人も一人に5、6社はあったような時代です。担当教授は、当然、「どこどこの会社に内定しました」という報告だと思っていたと思います。しかし、私は、東本願寺関係の「大谷専修学院」に進むことを報告しました。そしたら担当教授は、「最終学歴が大学でなくなるぞ。こんなことしていたら人生あやまるぞ」と非常に憤慨しておられたことを覚えています。大学4年間の学びはお前にとって何だったのだ。目的のない無駄な時間ではなかったのか。そういうことを言おうとしていたのだと思います。
 人生をあやまるとは、どういう人生なのか。あやまらない人生とはどのような人生なのか。就職をしたら、あやまらない人生を送ることができるのか。大谷専修学院に進んでもあやまらない人生を送ってやろうじゃないか。当時はそんなことを思いながら、大学を卒業し、大谷専修学院に入学しました。
 「人生あやまるぞ」という言葉は、今でも私から離れない言葉として残っています。自分の人生について問われた大切な言葉だと今でも思いますし、生きることを考えるきっかけとなった言葉です。
 私たちは、目的が達成できなかったり、思いどおりに行かなかったとき、そのための苦労や努力は無駄なこと、無意味なことのように思ってしまいます。思いどおりに目的が達成する人生が、よい人生、意味ある人生なのでしょうか。そうでない人生はダメな、無意味な人生なのでしょうか。
 親鸞聖人もまた、思いどおりにならない人生を生きなければならない苦悩を抱えながら、あやまりなく生きる道を求められたのではなかったのではないでしょうか。
 お経を縦糸で喩えられているのは、縦糸と横糸によって布が織りあがるように、思いどおりにならない、苦悩を抱えながら生きる私の人生は、お経、お経に説かれる仏さまの教えによって初めて受けとめられるのです。どのような人生であっても、一点ものの布が出来るように、何ともくらべる必要のない尊い者として、今、私は生きていることを、仏さまは教えているのです。

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