ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邊 学(新潟県 明正寺)
第六回 仏教の喩え 最終回 石ころとこがね音声を聞く

 本日も、仏さまの教えのたとえをたよりにお話をいたしたいと思います。
 今回は、親鸞聖人の『唯信鈔文意ゆいしんしょうもんい』という書に記されている「いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめん」という喩えです。この喩えは、中国の唐時代の高僧、法照の『五会法事讃ごえほうじさん』という書の「よく瓦礫がりゃくをして変じて金と成さんがごとくせしむ」という言葉に対しての親鸞聖人のうなずきです。「瓦礫」、普通の読み方ですと「がれき」です。小石やかわら、石ころなど、価値のない、役に立たない、どこにでもゴロゴロと転がっているものが、「いし・かわら・つぶて」ということです。そして親鸞聖人は、その「いし・かわら・つぶて」を「そのような私たち」であると、うなずいています。「私たち」であると。いくらでも代わりがあるような「いし・かわら・つぶて」が、「こがねに変え成す」とは、どのようなことに依ってなのでしょう。
 大谷中学校・高等高校という学校が京都にありますが、その学校の前校長先生、真城義麿ましろよしまろ先生が法蔵館発行の『真宗と生活』(2005年7月25日発行)という本の中で、「いまの日本には“人間”がいなくなってしまって、次の三種類の人たちばかりになってしまった」とご指摘をされています。
 その「三種類の人」を要約しますと、一つは、「人間」がいなくなって、「人」ばかりになった、というのです。人間のげんあいだがなくなった。つながりや関係が希薄になり、個別化の傾向が強くなったと。人間関係に煩いたくないということでしょう。
 二つめは、「人間」がいなくなってしまって、「天人」ばかりになってしまったと。天人とは、衣食住に困らない。健康で長生き。便利で快適な状態を「天人」というのだと。そして天人は、全て揃っていることが当たり前になるため、老、病、死のように失われていくことに価値を見いだせず、あってはならないことだと、大騒ぎをするのが天人だというのです。
 三つめは、「人間」を人材として見る。何ができるか、どのような能力を持っているか、何の役に立つかなどで、人間の値打ちを決めてしまう。何かの役に立っている間は値打ちがあり、役に立たなくなったら、値打ちが無くなるという考え、ものの見方が私たちに身についてしまった、というのが「人間がいなくなってしまって、次の三種類の人たちばかりになってしまった」とのご指摘です。
 仏さまの教えは、人間をつながりの中に生きるもの、一人では生きていけない、と。人と人との交わり、地球のあらゆるものと関係の中に生きているのが人間だと教えます。この関係、交わりが壊れると、生きる場所がなくってしまって、生きていけなくなってしまうのです。生きる場所、安心して居られる場所がなくなってしまうことを、「人間がいなくなって」と真城先生はおっしゃるのでしょう。いわば人間そのものが壊れていくような時代が今の社会なのです。
 しかし、私たちは、このような時代に生まれ、生きて行かねばなりません。さまざまな欲望に振り回され、評価され、身を煩わし、こころを悩ませながら、思いどおりにいかないことも一杯あるでしょう。「こんな世の中だから悪いんだ」「こんな病気になったらもう終わりだ」「どうして私がこのような仕事をしなければならないのか」一杯あるでしょう。だからこそ、このような時代にあって、親鸞聖人が教える、「いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめん」という、どのような人であっても、その人生を「こがね」のように、一人ひとりを光り輝かせたいという、仏さまの本願、いのちの深い願いがはたらいているのです。「こがねに変え成す」といっても、石ころを金にするのではありません。もしそうだとしたら、それは、マジックでしょう。そうではなくて、石ころは石ころのままに、それ自身の中に価値を、存在の意義を見いだすということです。他のものと比較して価値を見いだすのではありません。仏さまの本願、いのちそのものが持つ深い願いのはたらきに目覚めることによって、人間に、一人ひとりが本当に尊敬しあえる関係が実現できるのです。それはまた、どのようなものも、みな生きることのできる道でもあります。みな生きることのできる道こそが、私たちに本当の喜びと、満足が得られるのです。その道を親鸞聖人は、浄土真宗という言葉で教えてくださっています。

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