ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邊 学(新潟県 明正寺)
第四回 仏教の喩え その4 ?取り虫と蚕音声を聞く

 仏さまの教えは、多くのたとえをもって語られていますが、本日も、その一つをたよりに、お話を進めたいと思います。
 親鸞聖人は、お釈迦さまの教えを正しく受けとめ、その教えを自分のところまで伝えてくださった代表として、七人の求道者、道を求める僧を大切にされました。インドの龍樹菩薩、天親菩薩。中国の曇鸞大師、道綽禅師、善導大師。日本の源信僧都、源空上人です。特に親鸞聖人は、仏さまのお弟子としてのご自身の名前を、天親の親の字を、曇鸞から鸞をそれぞれいただいて、「親鸞」とされたとも言い伝えられています。
 浄土真宗の依りどころとする経典『仏説無量寿経』には、人間を平等に救う真実の法が説かれますが、天親菩薩は、その『仏説無量寿経』のこころを深くいただき、たたえられ、『浄土論』という書を著しました。親鸞聖人は、人間を平等に救う真実の法を、天親菩薩自身が身をもって体験し、その願いが真実であることを証明してくださったのが「浄土論」であると、とらえておられます。
 そして曇鸞大師は、その『浄土論』のこころを深く解釈し『浄土論註』という書を著しました。その『浄土論註』の中に「?蠖しゃっかくの循環するがごとく、蚕繭さんけんの自縛するがごとし」という喩えがあります。
 早朝から随分と聞きなれない言葉が続いた前置きになりましたが、この喩えは、浄土とはどのような世界か。なぜ阿弥陀という仏さまは、浄土という世界をつくられたのかを、説かれる中で語られています。「?蠖」とは?しゃく取り虫のことで、?取り虫が、ぐるぐるとめぐり歩くようなものであると。そして「蚕繭」とは、かいこ、まゆのことです。蚕は脱皮して、自らが出す糸で、繭を作りさなぎとなりますが、自らが出した糸によって自らを縛りつけていくようなありさまを喩えた表現です。
 さて、この喩えは、私たちにどのようなことを教えようとされたのでしょうか。
 今、注目を集めているブータンという国があります。インドと中国に挟まれた、ヒマラヤ地方にある人口約70万8千人の国です。昨年は、国王夫妻が日本を訪問されたこともあり、ご存じの方も多いのではないでしょうか。何故注目かというと、地球上で一番、幸せを感じる国だそうです。実に国民の97パーセントの人が、自分は幸せである、という調査結果もあるそうです。国の発展は、国民の幸せは経済発展だけでは量れないとして、国の基本政策を、GNP、国民総生産をモノサシにするのではなく、GNH、HはハピネスのHで、国民総幸福をモノサシにしている国です。日本と比べたら、電気が通じていない村もありますので、便利で快適、清潔な生活、いわゆる文化生活のレベルからいったら随分と遅れている国です。しかし、とても自然を大切にしている国だそうです。「自然を大切に」の考え方も、人間が自然を守るという考えではなく、人間が手を入れないという考え方です。人間が侵してはならないものが自然であるという考えなのです。そして、実に驚くことに、ブータンには「ストレス」を意味する言葉がみあたらないそうです。日本は子どもから、お年寄りにいたるまで、「ストレス」を知らない人はいないでしょう。
 ブータンのような国に出会いますと、みなさんはどのように感じますか。とても懐かしく感じるとともに、新鮮に感じるのは私だけでしょうか。
 この?取り虫と、蚕の繭の喩えは、私たちの在り方、作り出す世界を教えているのではないでしょうか。よりよい生活を求めてストレスをため、豊かな国を目指して孤独死を生みだし、便利で快適な生活を手に入れるために、放射能で汚染された人の住めないような地域を作ってしまうような、私たちの在り方を言い当てた喩えなのです。自分だけの欲望を求め、満足させる世界、仏教では天上界といいますが、そのような天上界を目指し、そして結果として地獄を作っていくような我々を、また、その欲望にきりがないことを言い当てているのです。なおかつ、そのことに気付くことがないのが私たちなのです。蚕が繭を作り、自らを縛っている意識がないように。そのように生きる私たちを哀れんで、阿弥陀という仏さまは、浄土という国土を願ったというのです。それは「いのち」の願いとも言えるでしょう。私たちが、心の奥底で求めている世界が、阿弥陀の浄土として示されているとも言ってよいかと思います。

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