ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邊 学(新潟県 明正寺)
第二回 仏教の喩え その2 お経は鏡音声を聞く

 先回に続いて、仏さまの教えを、たとえをたよりにお話をいたします。先週の第1回は、「経というはたていとなり」という喩えを用いて語られる「お経」は、私たちにとってどのような意味を持つものなのかを尋ねてまいりました。
 今回も、先回に続いて「お経」ということを善導大師の喩えに学んでまいりたいと思います。善導大師は中国、唐の時代、今から約1400年ほど前の僧侶です。その善導大師が「経教はこれを喩うるに鏡のごとし」という言葉を残しています。
 お経に説かれている仏さまの教えは、喩えるならば鏡のようなものだというのです。鏡は鏡の前に立つものを偽りなく映し出すように、お経を幾度も読み、その心を尋ねれば、私の偽りない心と身の事実、そして私たちが作り出す世界をつぶさに映し出し、教えられるというのです。それがお経のはたらきであり、それを智慧ともいうというのです。
 みなさんは、自分の顔や姿を鏡に映したことがありますか。一日に何十回も見る人もおられるでしょう。また、ほとんど見ない人もおられるかもしれません。さまざまでしょうけど、見たことが無いという人は、たぶんいないと思います。その鏡に映った顔や姿のすべてを「自分」であると受け取れるでしょうか。案外自分の都合のよいところだけ、見たくないところは見ないようにして見ているのではないでしょうか。鏡に映った姿は自分には違いないけど、それを見る自分の見方に、思い込みや都合が入り混じっているのではないでしょうか。
 では、自分の声を聞いたことのある人はおられるでしょうか。これは案外少ないのではないかと思います。自分が話す声は自分でも聞こえますが、人に聞こえている声と、自分が聞こえている声は違うのです。これは、自分の声を録音して聞いてみたらすぐわかります。私も自分の声を録音したものを聞いたことがありますが、「自分はこんな声なのか」「こんなしゃべり方をしているのか」と、自分が思っている自分と、大きく違った自分の声を聞いて、恥ずかしいというか、びっくりした経験があります。声を仕事にしている人、例えば歌手であるとか、僧侶の中でもお経を声に出してよむときの模範となる人は、自分の声を録音して練習を重ねるそうです。自分では気づかない癖や間違いを知るためです。自分が聞いている声や音、表現などが、実際とは違うということでしょう。「なくて七癖、あって四十八癖」という諺があるように、自分の思いと、実際の自分の姿、身の事実にはズレがあるということです。そのように自分の思いや都合を中心に、自分自身をはかり現実と思いのズレに一喜一憂しながら、自惚れてみたり、落ち込んでみたりして生きているのが私たちなのですけれども、お経、すなわち仏さまの教えに照らし出されたとき、自分の本当の姿が教えられるというのです。それがお経であり、仏さまの教えだというのです。ですから、仏さまの教えは、立派なものの見方や考え方を教えるのではなく、自分自身が明らかに教えられる。教えられたことをとおして、自分はどうなりたいのか、何に生涯を尽くしていくのか、本当は何を求めているのかを初めて知らされるというのです。そのことを智慧ともいうのです。
 もしも、仏の教えに出遇うことがなければ、私たちは、長生きしたとか、成功して財産を蓄えたとか、自分ほど苦労した者はいないなどと、自分と他人をくらべるばかりで、傷つけ合って生きて行くしかないでしょう。この私が生まれて来たこと、このいのちが尽くしていく使命を知らずに生きてしまうのでしょう。
 お釈迦さまは教えます。「たとえ百歳の長き命を生きたとしても、自分のいのちの歴史の深さも広さも知らず、何ものともくらべる必要のない尊いわたしであることを知らずにいるなら、このことを仏さまから教えてもらった人の一日の生にも及ばない」と。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回