ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邊 学(新潟県 明正寺)
第三回 仏教の喩え その3 宝の樹音声を聞く

 前回までは経、お経のはたらきについてお話しさせていただきました。今回は、そのお経に説かれている阿弥陀仏の浄土についてお話しいたしたいと思います。
 親鸞聖人がとても大切にされたお経に『仏説大無量寿経』というお経があります。浄土真宗の拠りどころとする三つのお経の中の一つです。そのお経の中に、阿弥陀仏の極楽世界には、七つの宝でできた樹が、国中に満ちているというたとえが出てきます。七つの宝。七宝焼きという、いろいろな色を使った綺麗な焼き物の工芸品もありますが、七宝とは、金、銀、瑠璃るり玻?はり珊瑚さんご瑪瑙めのう??しゃこなどです。浄土、仏さまの国には、この七つの宝でできた樹が満ちているというのです。その樹は、金の樹とか、銀の樹とか一つの宝でできている樹もあれば、二つの宝から七つの宝まで、さまざま組み合わさった樹もあります。金の幹に銀の葉・花・実をつけた樹。金の根、銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、瑪瑙の華、??の実から成っている樹もあります。あるいは、珊瑚の根、瑪瑙の幹、??の枝、金の小枝、銀の葉、瑠璃の華、水晶の実でできている樹もあります。これらの宝の樹は、それぞれがお互いに認め合い、威張ることもなく、すねることもなく、ねたむこともなく、一本一本が、輝きに満ちている。そして風が吹くときには、宝の樹は、さまざまな音色の音を奏でて、その音色は、見事に調和しているというのです。
 このように、お宝ばかりでできた樹が、浄土には満ちているというのですが、このような空想みたいなことを言うから、だから仏教は現実ばなれしているのだ、という声も聞こえてきそうですが、仏さまの教えは、私たちの在り方、考え方、この世界のことを、さまざまな喩えをもって教えてくださっています。ですから、浄土といっても私たちに無関係ではありませんし、ましてや死んだ後に有る世界でもありません。私たちが今、こうして人間として生まれ、生きている。そのことの意義を阿弥陀仏の浄土の教え、仏さまの教えをとおして、教えてもらうのです。
 ところで、お宝が沢山出てきましたが、皆さんは、どのお宝が好みですか。金ですか。金は、資産価値がありそうですね。それとも珊瑚でしょうか。珊瑚は貴重になりましたからね。それとも水晶の透明感でしょうか。人それぞれの選び方があると思います。私たちが何かを選ぶときは、必ず基準になるものがあります。七宝の中から選ぶとしても、価値が有るとか無いとか、貴重で有る無し、綺麗で有る無し、あるいは私に似合う、似合わないとか、そうゆうモノサシを持って見てはいないでしょうか。そしてもう一つ、有る無しと分けたり、順番を付けることによって、大きく評価が変わってしまいます。1番の物は良くて、後ろに行けば行くほど、価値がなく、どうでもよいもののようになったりします。樹で喩えれば、幹が1番で枝が2番、葉っぱは何度でも出るから、どうでもよいといったようにです。七宝樹の喩えであらわす阿弥陀仏の浄土は、いのちあるものは、みな、宝だということでしょう。一人ひとりがみな、宝だと。誰が優れていて、誰が劣っているというのではなく、いのちあるものみな輝く世界だと教えるのです。私たち人間の作る世界はそういう訳にはいきません。
 私は、寺の住職ですが、家庭に戻れば4人の子の父親です。子どもが言うことを聞かない、思い通りに動かないと、つい出てしまう言葉があります。「誰のおかげで学校へ行けると思ってるんだ。誰のおかげで大きくなったんだ」と。その心は、私が支えてやっているんだ、ということです。支えてやっている。支えるものが主、偉くて、支えられる者は従、従うのは当たり前という意識です。しかし事実は、支え合っているという関係なのです。子どもがいるから頑張れることも多いです。子どもが育つから、親らしくなるということもあります。主従の関係でなく、支え合っている。私たちはこのような関係の事実を忘れるのです。だからこそ、仏さまの教え、浄土の教えが説かれるのです。

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