ラジオ放送「東本願寺の時間」

四衢 亮(岐阜県 不遠寺)
第一回 不安の底にある願い音声を聞く

 保育園や学校の運動会というとこれまでは秋の行事でした。最近は、練習中などの熱中症を防ぐ意味もあってか初夏に行うところも多くなったようです。運動会にまつわってとてもおもしろいことがありました。お寺のこども会に来ている五歳の太平君が、保育園の運動会の翌日「運動会は終わったね」と聞くと、「うん、昨日で終わったよ」と元気に答えてくれました。「昨日終わった」と言わないで、「昨日で」と言ってくれたことが、たいへん印象に残りました。
 春に新学期が始まって以来、毎日運動会の練習を行ってきて、「ようやく昨日で終わったよ」というのが太平君の気持ちなのでしょう。毎日が運動会本番でたいへん長い長い運動会だったのです。
 私たちは、そうはいきません。今日は練習だから、これはリハーサルなのでと手加減したり気を抜いたりします。そしてそうした意識が、運動会の練習に限らず、私たちの生き方全体にあるのではないでしょうか。今日はまあしかたがないけれど明日はしっかりやろうとか、先のことがあるからこそしっかりやろうとか。先へ先へと意識を送って生きることになっていないでしょうか。
 つまり、私たちの生き方が、次のため、これから先のための準備や段取りに追われてしまっているのです。保育園や幼稚園も次の小学校のための準備です。平仮名・カタカナなどは小学校の準備として身につけておくことが普通です。そして小学校も中学への準備、最近は中学受験ということも多くなりました。そして中学へ入ればいよいよ高校受験が控えていますから、受験勉強という準備が本格化し、高校も大学を目指しての準備になり、大学も昨今の就職難という問題から、早くから就活という就職準備が必要になります。それから就職の後は、結婚を願っての婚活という準備もこのごろは話題になります。
 さらに、結婚して子どもが生まれれば、その子どもの公園デビューから幼稚園・小学校と、その子どもの準備に、親は自分の時以上に熱心に準備や段取りに追われます。そして、子どもも就職してその準備から手が離れるころになると、自分の定年が間近に迫り、定年後の生活設計の準備に気をつかい、老後の準備をし、最後はお葬式やお墓の準備に心を砕く。
 こうして見ると、現在の私たちの生活は、その多くが次のための準備に追い立てられているようです。そしていろいろ準備して、その準備のよさを人と比べて安心したり不安になったりして、準備を重ねて、気がついたら人生が終わっているということになりかねません。
 「私が一生懸命勉強するのは、より良い老後を迎えるためだ」と話した中学生がいました。まわりの大人から、しっかり勉強していい学校に入ればいい就職ができて、そうすれば年金も貰えて老後も安心だと言われているのでしょう。しかし、中学生にこんなふうに自分の人生を早くから見通させてしまう人生像が、本当に人生でしょうか。
 確かに現代の不安は、その多くが将来への不安かもしれません。社会保障・医療費・年金の不安要素がニュースやワイドショーで取り上げられない日はありません。だからこそ、それに備えた準備や段取りが人生の関心事となってきます。しかしどれほどりっぱな準備をしても、不安はなくならないでしょう。この先どうなるか、準備が間に合うか間に合わないものなのか、実は誰にもわからないのが私たちが生きている姿です。準備を気にすればするほど、もっと完璧で安心できそうな他の準備の仕方が情報として流されて、不安が増すことさえあります。準備が必要ないと言うのではありません。しかし先の準備に気を取られて、今ここを生きている私、その生き方や生きている世界がどんなことになってどんな問題を抱えているのかに鈍感になって、今を見失うことを私たちは願っているのでしょうか。
 実は、今ここを生きているという事実にうなづき、不安を生きている自分をしっかり見つめ、起こってくる一つひとつの出来事や課題をかけがえのないものとして丁寧に生きてゆきたい。それが不安の底にある私たちの願いなのではないでしょうか。

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