ラジオ放送「東本願寺の時間」

四衢 亮(岐阜県 不遠寺)
第三回 凡夫という教え音声を聞く

 凡夫、平凡の凡に夫という字を書きます。辞書によれば、普通の人、凡人とあり、仏教の用語として、煩悩に束縛されて迷っている人、と表されています。
 ただ、最初にこの凡夫という言葉を使ったのは、お釈迦様です。お釈迦様が、イダイケという女性に「あなたは凡夫だ」と呼びかけたのです。ですから、もともとこの凡夫という言葉は、仏様から私たちに向けられた言葉、私たちの問題を知らせる言葉なのです。
 よく「どうせ凡夫ですから」と言って、自分の失敗やしっかりできないことを言い訳したり自己弁護に使ったりすることがありますが、凡夫というのは、そうした言葉ではなかったのです。
 この凡夫という言葉について、中国、唐時代の善導という方が、大きな志を持たない者だということを言っておられます。大きな問題意識を持てなくて、自分の関心を抜け出せないということなのです。問題意識がないのではなく、社会全体を問うような問題意識を持つこともあるのですが、それがまた自己関心に戻ったり、留まってしまうということです。
 昨年の3月11日の東日本大震災、さらにそれに続く原子力発電所の事故。被災地の外にいた私たちは、まさにそれをテレビの映像を通じてリアルタイムに見ていました。たいへんなことが起こった。驚きと動揺する気持ちの中で、何とかしなければ、助けたい、何ができるだろうと、我を忘れて被災地のことを考え、行動しようとしました。そんな時は、まさに大きな問題意識を持って動き、動こうとしたのです。しかし、時間の経過とともにそれが変わっていきました。
 毎月お参りに伺っているお宅のお婆さんが、震災直後に非常用持ち出しのリュックを用意していらっしゃいました。地震が起きた時の準備だということで、大切なことですねと私はお話しして帰りました。その次の月に伺うとそのリュックは大きくなっています。お話を聞くと、被災地や避難所をテレビで見ていると、水がない食べ物がない電気がないと言われているので、だんだん不安になってあれこれ入れているとおっしゃいます。
 次に伺った時には、ずいぶん大きな大きさになっています。それで、もし地震が起きたらこのリュックは置いて逃げてください。これを運ぼうとすると遅れてしまうかもしれませんからと話したことです。
 私たちもこのお婆さんを笑うことはできないでしょう。悲嘆と恐怖に覆われた被災地を何とかしようと動いたのですが、被災地の状況を見ているうちに、もし私の所でも不足したらと不安になり、買いだめや買占めが、被災地以外の周辺で起こったのです。私たちは不安に駆られると何かにすがって早く安心するように行動します。水や電気やガス・食べ物が無くなることが不安でしたから、自分の安心を先に求めて、必要以上に買ってしまったのだと思います。
 被災地を何とか助けたいという大きな問題意識を持ったのですが、だんだん自分の安心や自分の関心の届く範囲に戻って、そこに閉じこもるようになってしまいます。つまり、最初は被災地を我が事として受け止め、何とかと必死になったのです。しかし、時間の経過とともに他人事になってしまったのです。被災地に私が居る、自分の家族や愛する者がいるということなら、まず一番必要な所に、まず必要な物資を、ということになるのですが、それがまず今私の所へということになってしまいました。
 でも、だからだめなんだ、自己関心を捨てて、大きな志、大きな問題意識に立てというのではありません。自分だけの問題意識に戻ってしまう狭さや偏りを、いつも知らせて呼びかける「凡夫」という呼びかけの教えを信頼し、それを聞き続けることで、凡夫の狭く偏る有様を悲しむ心を共感し、それを課題として共有して凡夫どうしが支え合う世界をいただけたらと思うのです。それを、同じ高さで同じ大きさで出会う同朋の世界といいます。私たちは、その世界が開くことを願って、御同朋と呼びかけられています。

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