ラジオ放送「東本願寺の時間」

四衢 亮(岐阜県 不遠寺)
第四回 現代の眼(まなこ)の危うさ音声を聞く

 凡夫、平凡の凡に夫という字を書きます。辞書によれば、普通の人、凡人とあり、仏教の用語として、煩悩に束縛されて迷っている人、と表されています。
 もともとこの凡夫という言葉は、仏様から私たちに向けられた言葉、私たちの問題を知らせる言葉なのです。よく「どうせ凡夫ですから」と言って、自分の失敗やしっかりできないことを言い訳したり自己弁護に使ったりすることがありますが、凡夫というのは、そうした言葉ではなかったのです。
 その凡夫について、お釈迦様は、「天眼を得ていない」という問題を挙げられます。天眼とは天下の天と眼(まなこ)と書き表されますが、あらゆるものを見通す仏様の眼のことです。それは壁の向こうが見えるとか、未来の姿が見えるという表現がされますが、むしろ私たち人間の眼がすべてのことを見通せないことや、目先のことに執われる眼の問題を明らかにするということではないでしょうか。
 私たちは、自分の眼、自分が見えているということに疑いを持つというようなことはありません。そのことで、こんなことがありました。
 毎月お参りに伺っているお宅で、おじいさんが、テレビを新しく買い替えられたのです。薄型の新しいタイプです。いいですねとお話しして帰ったのですが、しばらくするとまたテレビを買い替えられたのです。こんどはかなり大きな画面です。お聞きすると、大きい方が見やすいからとおっしゃいます。その後、アンテナを整備し直されたりもしました。
 つい最近お参りに行くと、ちょっと入院して白内障の手術をしたと言われます。そして笑いながら、テレビが悪いのだと思って買い替え、大きい画面にし、アンテナもいじったが、医者に見てもらったら、結局見え辛かったのは自分の目だったと言われました。自分を疑うことはなかなかないねぇと言われるのです。
 おじいさんが言われるように、私たちは、自分が見えていること、見たことを疑うことはありません。しかし、私が私の見方で見ている限り、私の価値観や、くせというフィルターを通して見ているということです。そのことは、現代においては特に注意しておくべきことだと思っています。今や私たちは、単に自分の眼だけでなく、情報化社会の中で、様々なレンズという眼を持っています。それは自宅にいながら世界中の情報を目の前に見ることができるということで、たいへん便利です。しかし、その便利さの中でこんなことも起きます。
 昨年の2月7日。2月7日は北方領土の日です。その日、当時の菅総理大臣は、北方領土返還の運動の集会で、前の年にロシアの大統領が国後島を訪問したことについて「許しがたい暴挙」だと発言しました。これは日本のメディアでも取り上げられました。その発言に対して、北方領土返還のための話し合いをする当の相手をいきなり厳しく批判するのは、外交上いかがなものかという意見も報道されました。
 私はたまたま、その日衛星放送でロシアのテレビニュースを見たのですが、そこには、北方領土を返せという宣伝をする街宣車に取り囲まれた東京のロシア大使館、その周りのデモと機動隊、抗議文を読み上げるグループの姿など、騒然とした雰囲気を延々と流し、つづいて菅総理大臣の「許しがたい暴挙」だという演説が流れました。これを見たロシアの人たちは、日本人というのは、とても反ロシアで、攻撃的だと思われたのではないでしょうか。
 日本のカメラ、ロシアのカメラ、どちらのレンズも事実を伝えたのです。つくりものではありません。しかし、ロシアのテレビニュースを見ただけの人たちと、日本の放送を見ただけの人たちの間には、両者が知らない間に大きな溝ができているのです。  現代の私たちの眼はこういう問題をもっているのではないでしょうか。それぞれの文化や国というレンズを通して見ているのです。だから自分たちの眼が絶対公平公正な事実を見ているということはむしろ錯覚なのかもしれません。
 凡夫は天眼を得ていないというお釈迦様の教えは、現代の情報化社会を誇り、何でも知り見えていると思っている私たちに、その危うさを教えてあるのでしょう。

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