ラジオ放送「東本願寺の時間」

四衢 亮(岐阜県 不遠寺)
第二回 天の迷い音声を聞く

 「現代と親鸞」ということからお話しします。
 「未来を語ることに意味があるのは、現在の行動に結びつくときだけである。」これは、1973年に『スモール・イズ・ビューティフル』という経済書を著わして、当時たいへんな反響を呼んだE・F・シューマッハの言葉です。
 シューマッハは、東洋思想に造詣が深く、ビルマ、現在のミャンマーの経済顧問をしていた関係もあって「仏教経済学」を提唱したことで有名です。浄土真宗は往生浄土という表現で未来への歩みを語りますが、そのことによって明らかになるのは、現在です。私たちの現在の課題が明らかになるということがないなら、そこで語られる浄土往生は、現実からの都合のいい逃避や、現在の課題を無責任に放棄することになるでしょう。現在と過去に目をつむり、未来に夢を見るように語られるのは、浄土ではなく「天」という迷いの世界だと表すのが仏教です。
 その「天」というのは天国の天です。その天というのは自分の夢や希望が全て適い、思い通りになった世界です。自分以外の全てが私のために奉仕し仕えてくれ、それを自在に扱えるこの上ない満足のいく世界です。私たちは程度の差こそあれ、自分の思いをかなえ、できたら夢や希望を実現しようと日々過ごしているのは、こうした天を築こうとしているのではないでしょうか。連れ合いも子どもたちもみな自分の思いに適ってくれた、孫も希望通り、親戚も近所もみんな良い人になって私を盛りたててくれる、健康も経済的側面も申し分なく整った、まさに夢の世界です。
 しかし、自分の思いに適って、都合よくその天に合わせてくれている他の人は、かなり窮屈な思いで耐え、辛さを忍んでいるかもしれません。親の希望や夢に追い立てられ、子どもが疲れて果ててしまうように。しかし大満足で天を主宰する者は、その天の中で辛さに耐え、苦しみ悩み、悲鳴をあげているものの姿に気づかず、その声も聞こえないのが仏教で言う「天の迷い」です。そしてもっとその天を拡大しようとし、その天を壊されまいとして管理を強める方向に心が奪われているのです。
 ただこれは、個人的な迷いの問題ではありません。私たち人間が願い営んできた文明は、この天を目指すものであったと言ってよいでしょう。そして今や日本の私たちは、その天を実現させていたと言えます。スイッチ一つで明るくも暗くもなり、レバー一つで涼しくも暖かくもなり、ボタン一つで洗濯や掃除などの器機が動きます。目の前の画面で世界とつながり、店には全て手をかけた衛生的で調理済みの食品が並ぶ。整ったその豊かさ便利さをどれだけ満喫するかを競うように生きてきました。
 しかし、昨年の3月11日の東日本大震災によって、その天が一挙に覆されたのでしょう。それは今まで辛さに耐えさせ犠牲を強いてきたことや考えなければならないことを先送りにしていた問題が一挙に露わになったのではないか。贅沢に電気を使うために地方に危険極まりない原発を押し付けてきたのではないか、再生不可能な資源を使い続けて再生可能エネルギーの開発と代替を怠ってきたのではないか。それ以外にも安全保障の名の下、沖縄に多くの犠牲を押し付けてきたのではないか。また安価な食品を手にするために途上国の安い労働賃金と劣悪な労働環境という問題を放置してきたのではないか。そういった問題が浮かび上がってきました。天を目指して、世を挙げて迷い、世の迷いを我が迷いとしてそれに気づかず、いよいよ混迷を深めてきたのではないでしょうか。
 仏教では、お釈迦様の生涯の伝記そのものが教えとして意味をもって語られます。つまり教えを聞いた人々が、お釈迦様の生きる姿を教えの内容として受け止めてきたのです。お釈迦様の伝記は、普通の伝記と違って、生まれる前にどこにいたかというところから始まります。お釈迦様は生まれる前に、全てが満たされた天の世界にいたとされます。そしてその天を捨ててお母さんのお腹に宿ったと表現されるのです。
 お釈迦様は、その天の迷いに気づいて、自分がいる天の世界を捨てて、この世に誕生されたということです。仏教は、私たちが天を築こうとして目指して歩む人生の方向を、迷いの方向としてとらえる教えであり、それを知らせるためにこの世に誕生したのがお釈迦様だと仏教徒は聞いてきたのです。

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