ラジオ放送「東本願寺の時間」

四衢 亮(岐阜県 不遠寺)
第六回 仏教における魔の問題音声を聞く

 「現代と親鸞」ということからお話しします。
 お釈迦様の伝記には、お釈迦様が覚りを開かれるのを妨害する魔が登場します。また、覚りを開かれた後も、教えを説いて魔を従わせることが出てきます。お釈迦様が課題にされたのが、魔という問題だったと言ってもよいのでしょう。
 この仏教で言う魔というのは、悪魔の魔ですが、一般的にイメージされる、神に敵対し神を滅ぼそうとする、外にある邪悪な存在ということではありません。仏教が問題にする魔は、むしろ私たちが魔に誘われ、魔になっていくという問題です。私たちの内に関係する問題なのです。
 仏教で言う魔は、インドの言葉で、伝染病のペストを意味するマーラーという言葉が基にあります。ペストが流行した古代インドやローマ、中世のヨーロッパでは、人口の何割もの人が亡くなって、国が傾くこともあったほどです。そこから、人間を根こそぎ奪うものという意味で使われるようになりました。
 人間を根こそぎ奪うというのは、人間のもっている大切な力や豊かな共感性などを奪ってしまうということです。私たちは、考えたり悩んだりします。それは人間の持っている大事な力です。くよくよ悩んだり、傷つくこともたくさんありますが、そのことで教えに学び自分自身や物事と深く出会い、問題と向き合うこともできます。また人の悲しみに共感し、苦しみに寄り添い支え合う出会いも開きます。
 最近、霊能者とか霊感師と呼ばれる人の虜になってコントロールされるということが話題になりました。このことを聞いて私が問題に思うのは、自分自身の人生なのに全てお伺いをたて、判断や思考を委ねてしまう在り方です。
 仕事が上手くいかない、体調が思わしくない。なぜこんなことが、どうして自分ばかり、我が家ばかりに続くのか、と気になり弱気になることがたくさんあります。そうした時に、霊感師とか占いなどにその理由を尋ねるのでしょう。そんな時私たちは、今の事態のおもしろくないことを何かに八つ当たりして責任を転嫁したいのでしょう。そういう私たちの心根に合わせて、前世の因縁とか何かの霊とか、わたしたちに祟っているものが紹介され、あなたは悪くなくて、これが祟り障りとなっていたと説明されるのです。
 逆に、仕事も順調、体調もすこぶるいい。そんな時は、祟っているものがあるといっても気になりません。そういう時の私たちは、この順調さをずっと維持したいのですから、その順調さを守ってくれる守護霊やお守りなどが紹介されます。
 このように私たちの心根に合わせて紹介されるのですから、当たるということにもなります。言うならば私たちの欲望を見せられているのでしょう。こうしたことがきっかけで、だんだん全てお伺いをたてて、その指示に自分の人生を任せてしまうことになるのではないでしょうか。こうして自身の人生に責任を持って向き合い、事実をうなずきながら自ら歩むことを奪うものを問題にしてきたのです。
 仏教の経典では、魔は人の弱点を襲い、弱みを突くことで誕生したされます。例えば事故を起こした時、お守りを持っていなかった、病気になった年に無病息災のお祓いをうけていなかったとすると、事故とか病という弱みを襲って、だからお守りを貰い、お祓いを受けないとだめなのですと脅しながら、それさえあったら、事故も病気もなかったのだと誘うということで、魔は力を発揮します。
 これは、私たちの中に、都合の悪いこと嫌なことは徹底して避け、他に転嫁し、自分には好ましいもの幸せだけを集めたいという心根があるからでしょう。それが仏教で言う魔に誘われ、魔に成っていくということです。
 私たちは,老い病み死ぬという形で生きています。もし、老いること病気をすること亡くなることが、善くないことや嫌なことだとするならば、この世は善くないことや嫌なことが起こる場所だということです。でもそのことで、かけがえのない人生を生きているということをいただき、出会えたことを喜び、病気や老いることの辛さを共感し、いたわりあい支え合う暖かさも広がるのです。そういう人間としての豊かさを全て放棄してしまうことが、魔という問題として取り上げられているのでしょう。

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