昨年の3月11日に発生した東日本大震災とそれに伴う原子力発電所の爆発事故は、現代を生きる私たち一人ひとりに対して、改めてその生き方・在り方を問うているように思います。地震で亡くなった人達や被災して不自由な生活を余儀なくされている人達の姿は、毎日の生活を当たり前のように過ごしていた私に、そのような毎日が続く保証など何処にもないという現実を突きつけました。また、原子力発電の危険性については以前から聞いていたにも関わらず、大した問題意識を持つことなく容認してきたことが結果として取り返しのつかない大事故を引き起こしてしまいました。社会に対する無関心と、便利さや経済的利益を優先する私の在り方が問われます。
親鸞聖人のお手紙を集めたものに『末灯鈔』というものがあります。その第6通目は88才の時に御弟子の乗信房に宛てて書かれたものです。その頃は全国的に地震や飢饉、疫病等によって多くの人が亡くなられました。そのような状況の中で関東の乗信房が手紙をもってその悲しみ、悲惨さを京都の親鸞聖人に伝え、しかも念仏者の仲間達が悲惨な状況で亡くなっていくという現実の中で改めて念仏申す事の意味を尋ねられたようです。それに対する御返事が『末灯鈔』の第6通目です。大震災に遭った今、そのお手紙を手掛かりにして、改めて私達の生き方・在り方を親鸞聖人に尋ねてみたいと思います。
さて、そのお手紙の書き出し部分を現代語訳で示しますと「なによりも、去年・今年と老少男女の多くの人々の死に遭いましたことこそ、寂しいことです。」とあって、まず人情をもって同情し、その悲しみが述べられます。たくさんの人々が亡くなっていく現実を見聞きし、そこに寂しいことですと言って悔やみ心が述べられるのは、人間として当然の感情なのでしょう。しかし、人間の同情には限界があり、同情しても同情しつくせないということがあります。時によると同情しながらいつしか自分は安全な場所で良かったという思いの中で、無関係の場に立ってしまうということもあります。親鸞聖人は温かい人情の言葉を述べつつも、ただ人情だけに流されず、仏さまの教えをふまえて、そして自分にも言い聞かせるように、「けれども、生死無常の道理は、すでに詳しく如来が説いておられることなのですから、改めて驚かれるには及びません。」と述べられます。生死無常、生死とは生と死、無常とは常が無いと書きます。生死無常とは、人間の世界には久しく留まるべきものは何もないという事です。人間は生まれた限り必ず死なねばなりません。しかも、その日がいつなのか誰にも分かりません。また、大切な人だ、愛しい人だと言っても、いつ別れの日が来るかも分かりません。生死無常の道理とは人間にとって冷やかな悲しい事です。しかし、この道理を自覚し、それに随順する所にこそ、人間として生まれたものの大切な生き方があるように思います。「朝、目が覚めた時、今日も生命あって働かせてもらうと思うと有難うという言葉がもれ、両手が合わされます」と言われた方がありました。生きていることが当たり前、健康であるのが当然と思っている時には、一日の生命に有難いということもないのでしょう。しかし、今朝、目が覚めたということは、何か保証があって目覚めたのではなく、いつ死ぬか分からない生命を今日も生かされたということです。それは求めても得られない生命を今日も給わったということでしょう。そうであれば、給わった生命は私の生命であって私のものではありません。一日の生命も疎かにはできない筈です。また、皆が揃って今日あるのが当然なのではなく、生別死別、必ず別れねばならないのが現実です。人は別離の上に親となり子となって、或いは妻となり夫となって、お互いに日々の生活を送っています。別れねばならぬ出会いであればこそ、出会った事の不思議さ忝さが思われます。明日にでも離れねばならない身であればこそ、今日、ともにあることが大きな喜びなのではないでしょうか。
このたびの東日本大震災は改めて私達に生死無常の現実をつきつけました。生死無常の道理は厳しく悲しいことであります。しかし、その現実の悲しみにおいてのみ、生死無常の道理は自覚せしめられるのかもしれません。そうであれば、悲しみをごまかしたり、或いは蓋をしてしまったりするのではなく、その悲しみと真向かいになる所にこそ、自他の生命を愛しみ、日々を大切にしていく生活の第一歩が始まるのではないでしょうか。