ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮武 真人(香川県 光顯寺)
第四回 愚者になって往生するということ音声を聞く

 親鸞聖人は88歳の時に御弟子の乗信房に宛てて書かれたお手紙の中で、50年以上も前に承った「浄土の教えに生きる人は、愚者になって往生するのである」という法然上人の言葉を取り上げられていました。前回は、その愚者という言葉に対して出ていた「学問を修めて、いかにも賢そうな人」という言葉を手掛かりに、賢さの問題についてお話しいたしました。私たちが求める賢さとは、一言で言えばより多くの知識を得ることです。しかし、そこには自分の身に付けた知識を確かなものとして分かったつもりになってしまうという問題があります。分かったことにした時、私たちは事実から離れてしまいます。生あれば死ありとは誰もが知っている知識ですが、今宵にも死ぬいのちであるという事実は案外忘れられているのでしょう。それに対して「愚者になって往生するのである」というのは、分かっているという所に立たず、改めて問い直していけるということなのだと思います。
 親鸞聖人は、前に生死無常の道理を述べていました。生死無常、生死とは生と死、無常とは常がないと書きます。生死無常の道理とは、人生は私の思い通りにはならないということです。生きている限り、辛く悲しいことに次々と出遭います。時には「こんなに辛い目に遭うぐらいなら死んだ方がマシだ」と思うこともあるでしょう。しかし、私たちは死んだことがありませんから、本当は死んだ方がマシかどうかは分からないはずです。ただ言えることは、死んだ方がマシだと思うのは、そこに生きる意味が見出せないということがあるのだと思います。けれども、逆に言えば、辛い人生から生きる意味が問われているとは言えないでしょうか。親鸞聖人が「浄土の教えに生きる人は、愚者になって往生するのである」というお言葉を取り上げられているのも、死を人生の答えにしたり、人生における不安をごまかしたりするのではなく、その人生の苦悩において改めて生きる意味を問うていけるということなのだと思います。
 賢い人は問うことよりも答えを重視します。たとえ問うにしても、答えの出ないような問いは持ちません。問えば答えることのできる問いだけを持ちます。それに対して愚かな人は、いくら尋ねても分からない問いを一生持ち続けていきます。親を失い、子を亡くしては、なぜ死んだのだ、どこへ逝ったのだと問わずにはおれません。いくら尋ねても死に答えはありません。賢い人は、生きていたから死んだのだ、死んでから往く所などどこにもない、いくら泣いても死んだものは帰って来ないという冷たい答えだけを持つのでしょう。なぜ生まれてきたのか、なぜ生きていかなければならないのか、なぜ死んでしまったのかというような問いは、答えの出ない愚かな問いかもしれません。しかし、生や死が問われるのは、人間の苦しみ悩みが人生を問わせるのであって、人間それ自身が問題となり、人生が問題となるのであって、そこに浄土の教え、念仏の教えがあるのです。思えば往生の往は往くということですし、往生の生は生きる、生まれるということです。つまり、往生とは往き生まれるということです。それは生まれるということを一刻一刻と生きていくということです。いつどのような死に方をするか分からない人生を、その生命終わる時まで生まれ続けていくということです。悲しみに出会えば、悲しまなかった時の自分ではなく、悲しむ自分に新しく生まれるのであり、苦しいことに出会えば、苦しいことがなかった時の自分ではなく、苦しいことを引き受けて生きていくような新しい自分に生まれるのです。そして、生命終わる時に一番新しい自分になって人生を全うしていくということです。「浄土の教えに生きる人は、愚者になって往生するのである」とは、浄土の教えに苦悩の人生を問うていくということです。そこに苦しみや悲しみや、時には死にたいような思いや、いろんな経験の全てを新しい自分に生まれる御縁としながら、生命終わる時が一番新しい、そして自分の一生の前に「有難う」と言える自分となって死んでいけるような人生が明らかになるということです。「嘆けば限りなく、喜べば限りない。悲しみの日には悲しみに育まれ、喜びの日には喜びに生かされて、無駄なものは一つもない。苦しみにあけ苦しみにくれるような一日も、念仏にあけ念仏にくれる一日である。喜びはそのうちにある。」と言われた先人の言葉が想い起こされます。

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