ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮武 真人(香川県 光顯寺)
第六回 罪悪深重音声を聞く

 前回は、人間が一人生きている限りどこからか、いつの頃からか、誰かの願いが必ずかかっている、それを根本として、仏さまの願いがこの身にかかっているということを教えてくださるのが親鸞聖人の教えであるということをお話しいたしました。
 ところで、震災後、医師の鎌田實さんという方が書かれた文章を読んで愕然としました。そこには、津波に流された犬や豚などにも眼差しが向けられ、悲惨な目に遭ったのは人間だけではなかったということが記されていました。そのうえで鎌田さんは「生き物はみんな被害者だ」と言われます。なぜ私が愕然としたのかと言うと、恥ずかしながら私には、その視点が全く抜け落ちていたからです。しかし、放射能に汚染された海・大地・大空、そしてそこに生きるあらゆる生き物、その全てが被害者であるということは紛れもない事実です。では加害者は誰かと言えば、それは私達人間です。
 親鸞聖人は罪悪深重とか罪業深重という言葉を大切にされました。罪悪深重とは、罪悪が深く重いと書きます。それは私達が罪の日暮らしをしているということです。私達は動物や植物を食べずには生きていけません。生きるということは、他の命を奪うということです。それは、仏教でいう殺生罪を犯しているということです。もちろん人間以外の動物も、他の命を奪わなければ生きていけません。事実のみを言えば、あらゆる生き物は全て他の命を奪って生きています。しかし、他の命を奪ってしか生きていけないということを自覚し、そこに罪の身を感じ、そしてそのことを悲しむことができるのは人間だけなのでしょう。そうであれば、無数の命を食べて生きている限り、私が生きていることが罪悪であると感じることにおいて、初めてその人は人間として生きていると言えるのでしょう。しかし、罪悪深重の自覚とは、決して情けない命を生きるということではありません。むしろ、無数の命を給わっている身を大事に生きなければならないということです。どんなにみじめであろうとも、自分の命を軽んずる訳にはいかないし、大地にひれ伏してでも生きなければならないのです。私が自分の命を軽んずるならば、それは私が奪った命を無駄死にさせることになるのです。私の人生を全うすることが、私が奪った命の願いに応えることになるのでしょう。そのことを思うとき、親鸞聖人の「この如来、微塵世界に満ち満ちてまします。十方群生界の心なり。草木国土ことごとく成仏すと説けり」というお言葉が思いおこされます。それは、あらゆる所に阿弥陀如来という仏さまは満ち満ちておいでになる。そして、あらゆる生き物の心としてはたらいている。だから、草も木も大地も全て仏になると説かれているというのです。つまり、仏さまの願いはあらゆる生き物の心となって私達に働きかけており、私達はその仏さまの願いによって生きているということです。そのことに私達一人ひとりが本当に気付くなら、仏さまのはたらきである生きとし生けるものを殺してはならないと思うに違いありませんし、同時に私が環境破壊の加害者であったと自覚するのでしょう。
 原発問題、公害、戦争などは環境を破壊する問題であり、現代の大きな課題です。しかし、まず何より、それらを問題としている私自身の在り方を見つめなおさなければならないのでしょう。そのとき私が環境破壊の加害者であると自覚するのです。確かに私たちは自己中心、人間中心の生き方を免れないのかもしれません。そして、自己中心になれば必ず周りのものを利用し、また平然と傷つけていきます。しかし、人間を育み生かしてくれている生きとし生けるものの願い、仏さまの願いが実感されるなら、そこに自己中心的な生き方の罪が知らされ、その自己中心的な在り方が悲しまれるのでしょう。そのとき私はお米一粒も粗末にすることはできないし、環境破壊などできる筈がないのです。
 人間中心の時代と言われ、また人間不在の時代だとも言われる現代、何よりも大切なことは、仏さまの願いによって生かされて生きるということを実感することなのでしょう。私たちはそのとき、人間が本当の人間になっていく人生を歩んでいけるのだと思います。

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