前回に引き続き、親鸞聖人が88歳の時に、御弟子の乗信房に宛てて書かれたお手紙を読んでまいります。前回の放送でも申しましたように、その頃は全国的に地震や飢饉、疫病などによってたくさんの人が亡くなっており、そのことをとりあげてのお手紙ですので、そういう意味で、震災後の今を生きる私たちにとっても、深く関わるように思います。そのお手紙の書き出しは、去年今年と多くの方が亡くなったことに対する悲しみが述べられ、それに続けて、生死無常の道理は仏さまが既に詳しく説いておられることだから、改めて驚かれるには及びませんと言われていました。温かい人情で同情しつつ、だからと言ってただ人情だけに流されず、さらに人間の世界には久しく留まるべきものは何もないという生死無常の道理が語られていました。生死無常、生死とは生と死、無常とは常が無いと書きます。生死無常とは人間の世界には久しく留まるべきものは何もないという事です。
さて、そこで前回の続きを現代語訳で示しますと「ともあれ、私、善信においては、臨終の善し悪しを問うことはしません」と述べられます。ここに善信というのは親鸞聖人のことです。臨終の善し悪しとは、死ぬ時の最後の姿、俗にいう死にざまです。安らかな死にざまであろうが、逆にもがき苦しみ、見ている人がつらい思いをするような死にざまであろうが、それは問題ではありませんと言われます。前には生死無常ということが仏教の道理であるから、どのような亡くなり方をしても驚かないようにと語られていましたが、そのことを自らにも引き当てて、私もどのような死に方をするか分かりませんと述べられています。それは、自身の問題として人々の死を見聞きし、我が身の上に生死無常を感じているのでしょう。そして、なぜ臨終の善悪が問題にならないのかということが次に述べられます。「信心の定まった人は、阿弥陀仏のお誓いを疑う心がないのですから、必ず往生する身と決まっています。だからこそ、愚かで無智な人も、何の心配もなく臨終を迎えることができるのです。如来の御はからいによって往生するのだと人々が申されましたことは、少しも間違ったことではありません。年来、方がたに申してきたことも、それに異なるものではないのです。」ここに信心が定まった人とは、念仏申す身になるということです。念仏往生ということが言われますが、その念仏申すものが浄土へ往生するということは、仏さまのはからいであって、私達人間が決めることではありません。仏さまの御はからい、仏さまのお仕事に私達人間が手を出さず、おまかせして、私達はただ与えられた念仏を申していくのです。念仏申す人生とは、如何に辛く悲しいことに出会おうとも、如何なる死に方をするにしても、その与えられた人生がお浄土への歩みとなるということです。だからこそ死にざまが問題とならず、愚かで無智であろうが、往生には差し支えがないのです。往生浄土とは人生の行方が定まることです。死んで後のことではなく、死ぬまでの一日一日が浄土への歩みとなり、生きる日は生きる日の喜びを知り、死ぬ日には死なせて頂く幸せを感ずるということです。死ぬ人が死んでも死ねないというのが幸せか、死ぬ人が今日まで生きさせて頂いてと喜ぶのが幸せかは、明らかなはずです。
親鸞聖人は多くの人々の死を外に見ているのではなく、自身の問題として受け止めておられました。自身の問題として受け止めるとは、亡くなった人たちから「あなたにとって死とは何か」「あなたはどこに向かって生きているのか」という問いかけを聞いていけるということだと思います。日頃は「浄土があるかないか分からないのに」と、お寺に通い仏教の教えを聞く知人をわらっていた女性が、ある日、息子を事故で亡くし、その出棺の際に「いい所へ参るのだよ。先に往っておいておくれ。お母さんも後から行くから」と棺にすがって泣いていたという話を聞いたことがあります。残されたものは先に逝ったもののことが案ぜられます。しかし、亡くなった子が如何にあるかを思わずにおれぬなら、省みて、その亡くなった子がこの世に残った親兄弟をいかに念じ見ているかを思わなければならないでしょう。残ったものが死ぬことも忘れ、かつて泣いて死者に言った言葉も忘れて、この世の生にのみあくせくしているなら、先立ったものはこれを如何に悲しみ見るでしょうか。人生を旅にたとえられることがあります。旅には旅の行方があります。一日一日の人生の旅にも、その行方が問われなければならないのでしょう。