ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮武 真人(香川県 光顯寺)
第五回 願いを聞く音声を聞く

 前回の放送では「浄土の教えに生きる人は、愚者になって往生するのである」というお言葉についてお話ししました。それは、人生の苦しみ悲しみから生きる意味が問われ、その問いを念仏の教えに尋ねていけるということです。親鸞聖人は、苦悩の人生を念仏申して如来の本願を聞いていく道として教えられます。如来の本願とは、仏さまの願いということです。ところが、如来の本願などと言うと、仏さまがいるかどうかも分からないのに非現実的だと思われるかもしれません。しかし、如来の本願とは人にかけられた真実の願いということです。如来があろうが、なかろうが、一人の人が生きている限り、どんな人でも願いのかかってないものはいないということです。しかし、その願いがかかっているということを忘れて暮らしているのが、私達の在りようなのかもしれません。
 私たちは自分の人生は自分のものであると思い、自分の力で生きているように考えますが、実際には様々な働きに支えられて生きています。極端なことを言えば、生まれたばかりの赤ん坊に「あなたの人生はあなたのものだから好きに生きなさい」と言って放り出しても、当然自分で生きていくことなどできません。やはり私が今日まで生きてきたということは、私を生かすために、無数の願いが、生きてくれ、生きてくれと支えていてくれたということなのでしょう。今こうして生きているということは、単に親だとか兄弟だとか、そういう知っている範囲だけではなくて、いかに多くの願いの中に育ってきたのかということが思われます。そうしますと、人間が一人生きている限り、どこからか、いつの頃からか、誰かの願いが必ずかかっています。それを根本として、仏さまの願いがこの身にかかっているということを教えてくださるのが親鸞聖人の教えです。
 日常の挨拶でも「お身体、お大事に」と言われたら「有難う」と言います。お大事にと願ってくださる人の真心の前に、その真心を有難うと頂くのでしょう。そんなことを言ってもらっても健康でいられるかどうか何の保証もありません、などと言う人はありません。むしろ、何の保証もない身に「お大事に」と願ってくださることが有難いのであって、その願いを聞かせてもらう所に、我が身を大事にしていこうとする思いがおこるのです。以前、テレビのCMで「命は大切だ。命を大切に。そんなこと何千何万回言われるより、「あなたが大切だ」誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける。」というのがありました。我が身にかけられた如来の本願を聞くということも、そういう「あなたが大切だ」という呼びかけを聞いていくということです。そこに苦悩の人生を一日一日と歩んでいくのです。念仏を「お母さん」と呼ぶ子供の声に譬えられることがあります。子供は寂しい時、不安になった時、「お母さん」と呼びます。その呼び声は子どもの声に違いありませんが、その背景には母親の子を思う心があります。親の子を思う心が、子の「お母さん」という呼び声になるのでしょう。ある先生は「親を亡くした子の悲しみを救うものがあるとすれば、それは親のなき子の悲しみを、悲しみ見る親の大悲のみであろう」と言われました。母のないさびしさは、亡くなった母を呼びます。母親の名を呼ぶことが、その悲しさのうちを悲しみのままに歩ませるのでしょう。我が身にかけられた親の願いを知った日から、子は新しく親の願いに生かされていきます。如来の願いが聞えた日から、如来の願いに生かされていくのです。念仏申すということも、如来の本願が念仏となるのです。どうにかなるから念仏申すのではなく、どうにもならないままに念仏申されるのです。生きている限り次から次へと問題は起こってきますが、我が身にかけられた願いを知るなら、そこに安心してその問題を引き受けていくことができます。かつて曽我量深先生は「人生における苦しみはすべて如来の激励(はげまし)である」と教えて下さいました。苦悩においてこそ如来の本願が聞こえてくるということでしょうか。願いを聞いていく人生とは、願われた身の尊さに目覚めていくということです。苦しみや悲しみを失くしていくのではなく、苦悩を抱えたままの尊さに目覚めていくのです。そこに人生を歩んでいく力が与えられるのでしょう。自己主張の声のみ騒がしい時代です。今こそ我が身にかけられた願いを聞いていくことの大切さが思われます。

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