今回も引き続き、親鸞聖人が88歳の時に御弟子の乗信房に宛てて書かれたお手紙を読んでまいります。そこで、前回の続きを現代語訳で示しますと「決して学者ぶった議論をなさらないで浄土往生を遂げられてください。亡き法然聖人が「浄土の教えに生きる人は、愚者になって往生するのである」と言われたことを確かにお聞きしましたうえに、何の教養もわきまえない人々がやって来るのをご覧になっては、「必ず往生するに間違いない」とおっしゃって、微笑まれるのを拝見しました。学問を修めて、いかにも賢そうな人がやって来ますと、「往生はどうであろうか」と言われるのも確かに承りました。今にいたるまで、自ずと思い当たることです。」とあります。親鸞聖人がこのお手紙をお書きになったのは、88歳の時です。50年以上も前に承った法然上人の「浄土の教えに生きる人は、愚者になって往生する」というお言葉をとりあげて、今に至るまで事あるごとに思い当たることですと言われます。愚者とは愚かな者ということです。この「愚者」という言葉に対して言えば「学問を修めて、いかにも賢そうな人」という言葉が出ていましたが、学びということで言えば、念仏の教えを聞くということは、物知りの賢い人になっていく学びではなく、愚者になっていく学びだということなのでしょう。
思えば私たち現代人は知性を重視し、物知りの賢い人になることを目指してきました。勉強ができる、できないということとその人の人間性とは別問題であるはずなのに、勉強ができるということが何か立派なことのように思ってきたのではないでしょうか。確かに勉強をして知識を得ることは大事です。しかし、私達は知識を重視するあまり、分かったつもりになってしまうという問題があります。例えば、震災後、「想定外」という言葉がよく使われましたが、それは人間の知性を間違いないものとして、人間の考えを超える自然の脅威に思いが至らなかったということです。人間が身につける知識には必ず限界があります。それにもかかわらず、身につけた知識を間違いないものとして分かったつもりになった時、自分の思いも及ばない現実に対する心は閉ざされてしまいます。それは人との関わりにおいても、まずレッテルを貼ってしまい、本当のその人に出会えないということがあります。以前、ある学校で授業中に先生の許可も得ずに教室を飛び出し、そして水の入ったバケツを持って教室に戻ってくると、自分の前の席の女子生徒に、頭からその水をかけた男子生徒がいたそうです。先生が理由を聞いても答えません。皆さんはこの生徒をどう思うでしょうか。私はとんでもない生徒だと思いました。ただ、その先生は彼がなぜそのようなことをしたのかをずっと気にしていました。その後、その男子生徒が転校することになり、なぜあの時にバケツの水をかけたのかという事を再び尋ねると、実はあの時、女子生徒の椅子の下が濡れていたと言うのです。つまり、お漏らしをしていたということです。だから、それが分からないようにするために水をかけたのだと。だから理由を聞かれても答えることが出来なかったわけです。私がとんでもないと思った生徒は、とても優しい生徒だったわけです。私達が求める賢さとは、答えをたくさん知っている賢さです。問いより答えが重視されます。しかし、その先生は「そんなことをする生徒はとんでもない生徒だ」という答えよりも、「どうしてあんなことをしたのだろう」という問いを大事にされました。だからこそ男子生徒の本当の姿に出会うことが出来たのでしょう。
法然上人が「往生はどうであろうか」と言われた賢い人というのは、身に付けた答えで人生を解釈し、人生を分かったことにしている在り方なのでしょう。それは現実を生きるということにはなりません。法事の席で参詣者から「人は死んだらどうなるのでしょう」と尋ねられた先生がいました。その先生は「死ねば灰になるでしょうね」と答えました。聞いていた人達は「そうでしょうね、灰になることは間違いないでしょうね」と言ってどっと笑いましたが、その先生は皆の笑い声を聞きながら涙がこぼれたといいます。それは皆が死んでどうなる、こうなる、と知的な一般論をあげつらっていて、この自分が灰になるという厳しい事実を忘れていたからなのでしょう。