ラジオ放送「東本願寺の時間」

木ノ下 秀俊(岩手県 西法寺)
第一回 2011年3月11日音声を聞く

 福島県南相馬市の木ノ下です。今回から震災を経験して見えてきた浄土真宗の教えについてお話ししたいとおもいます。震災から一年半以上が経ちました。2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震。
 あの日私はお寺をささえてくださるご門徒の 方々と参加した研修会が終わり、福島県富岡町から南相馬市へと車を走らせていました。福島第一原発の入り口の信号を過ぎたあたりで、突然、それぞれの携帯電話がいっせいに鳴り出しました。緊急地震速報でした。
 車を国道の路肩に停めた途端に、経験したことのないような凄まじい揺れが襲ってきました。国道の中央線に沿って地割れが走りこちらに向かってきましたが、荒海の中の小船のように揺れる車内でハンドルにしがみ付いているのが精一杯。終ったかと思うとまた揺れだすという、長い長い揺れでした。
 本震がおさまるのを待って双葉町まで車を進めましたが、スタンドの従業員が車を止めていてました。車から降りてみると国道に架かる橋が落ちていました。
 国道は大渋滞を起こしかけていました。沿岸部の方から避難する車が国道に向って長い列を作っていたのを見ました。
 そうこうしているうちにあたりが騒然として、津波がそこまで来ているという叫び声を聞きました。まだこの時は半信半疑でしたが、これは大変だということで、あわてて車に戻り近くの高台にある小学校に避難しました。
 小学校の三階までかけ上がってみると、すでに三階から海の方を見ていた人が「ああ、もう駄目だ」と叫んでいました。その人は押し寄せる津波を見ていたのです。
 あの真っ黒な波。波というより、真っ黒な海が盛り上がり国道からすぐ東側にあった建物を飲み込んでいました。恐ろしかったですね。すこし前までその国道に居たのですから。
 その日のうちに帰宅することは無理だと判断してご門徒の方と一緒に避難所で一夜を明かすことにしました。ニュースでは原子炉は無事に緊急停止したので大丈夫だということでしたが、その避難した小学校は東京電力福島第一原発から直線距離で3㎞ほどしか離れていませんでしたから私は気が気ではありませんでした。
 日付が変わる頃、町役場と消防団の方がやって来て、明朝避難指示が出るので避難バスに乗るようにと言われました。私が南相馬まで帰りたいと言うと、国道と沿岸部の県道は通れない、山の際を走る県道もあちらこちらで道が崩落していてとても夜は走れないと言われ、しかたなく明るくなるのを待って南相馬市へ向けて出発したのです。
 途中、道路は土砂崩れがあったり地割れで段差が出来ていたりの惨憺たる有様でした。普段のように注意を促す看板もありませんでした。
 あの時一番恐かったのは橋です。農道に小さな橋があり、前にも車が一台走っていました。私は橋の前で思わず車を止めました。助手席の方が「一緒に早く渡ろう」というのですが、私は動きませんでした。なぜかと言うと、さすがに二台乗ったらこの橋は落ちるのではないか、あるいは一台でも落ちるかもしれないと考えていたからです。恐ろしいものですね、私は落ちるのであれば前の車だと思っていたのですから。親鸞聖人のお弟子の唯円という方が聖人のお言葉を書きとめられた『歎異抄』という書物に「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉があります。「状況によっては人はどんな事でもする」という意味です。まさにその親鸞聖人のお言葉どおりの私でありました。

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