ラジオ放送「東本願寺の時間」

木ノ下 秀俊(岩手県 西法寺)
第三回 避難所でのできごと音声を聞く

 前回は私自身が一昨年の東日本大震災で経験したことについてお話ししました。今回もその続きです。避難所での出来事をお話ししたいと思います。
 地震から4日目、何とか山形県の飯豊にある避難所までたどり着き、そこでガソリンが無くなりました。避難所には二百人ほどの避難者がいました。福島県浜通りのいろんな市町村から避難してきた人たちでした。中には原発の爆発する音を聞いて慌てて逃げてきたという人や、軽自動車に七人が乗って逃げてきたという人もいました。
 ですから何も持たずに避難してきた人ばかりでした。避難所といっても当初は暖房用の燃料や食料も乏しい状況でした。その後何日かしていろんな支援物資が届きましたけど、初めは何もありませんでした。
 3月16日になって初めて県から支援物資が届きました。届いたのはハブラシとタオル。あの時のハブラシとタオルといったら大変なものです。一応、避難所を管理する行政の方は全員に行きわたる分がない限りは配りません。配ったということは全員の分はあったということです。ところが「支援物資が届きました。各自取りに来てください」と報せたとたん、もう凄まじい勢いで人が集まり奪い合いが始まりました。ハブラシなんか一人一本あったらいいでしょう。本当は慌てなくても大丈夫なのです。ところが足りなくなりました。分け合えばあまるものも奪い合えば足りなくなる、まさにそういう世界を見たような気がしました。まさに欲望のとりこになって満足を知らない餓鬼道というのはこういうものかと思いました。あの時のハブラシとタオルは単に生活用品ではありませんでした。それは失った財産そのものだったように思います。考えてみれば私たちは沢山の物に囲まれて生きています。そして知らず知らずのうちに沢山の物に囲まれないと生きていけないようになっていたのかもしれません。
 避難所の近くの浄土真宗のお寺に何とか連絡を取って衣料品の支援をお願いしましたら、その日の夕方にはトラック一杯の古着を届けてくれました。避難所の所長さんは「これをどうやって配りますか。昨日のようになったら大変じゃないですか」と心配しましたが、私は今度は絶対足りると思ったので「このまま配りましょう」と、テーブルの上に山のように積み上げてもらいました。翌日、「支援物資の衣料が届きました。皆さん取りに来てください」とお報せをすると、昨日同様に大勢の人が集まり大混乱になりましたが、それぞれが両手で抱えきれないほどの衣類を持っても、まだまだ山のように積み上げられた衣類があるのを見た時、みんな普通に戻りました。まさに餓鬼のような自分であったことにそれぞれが気付いた瞬間でした。
 私は地獄道とか餓鬼道とか、いろいろ本を読んで、あるいはいろいろな先生方のお話も聞いて、重々分かったつもりでいましたけれども、他ならないこの私自身が地獄餓鬼というものを内に抱えていたということがこの震災によって突きつけられたように思います。
 でも気がついたのはそれだけではありません。避難所にいる間にいろんな人から電話やメールを沢山いただきました。全国各地の仲間が連絡をしてくれました。震災後の混沌の中、まったく先の見えない状況でしたから本当に有り難かったです。決して一人ではないと感じることができましたから。一昨年は親鸞聖人がなくなられて750年の法要がつとめられました。わたしどもの宗派真宗大谷派の本山、京都の東本願寺でつとめられた法要でも被災地のことを思って念仏をして下さる方々がある。念仏の声をもって被災地の我々に思いをはせてくださる大勢の人たちがいる。だから今は一人であっても一人ではない。孤独であっても孤立しているわけではないということを実感したのもこの頃でした。

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