前回は私が東日本大震災当日に経験したことをお話ししました。さて、今日はその翌日のお話をしたいと思います。
震災の翌日。なんとか南相馬市まで戻り、とりあえず一日か二日原発事故の様子をみることに決め、ほとんど着の身着のままで家族と自宅を出たのが午後3時でした。向かったのは西の飯舘村です。
ちょうど飯館村町役場の駐車場に着いた時にラジオで「福島第一原発で大きな爆発がありました」というニュースを聞きました。飯館村は地震で停電しており携帯電話も通じないという状況でしたが、その夜はたまたま酪農家のお宅に一晩泊めていただくことができました。
13日には飯館村の小学校の体育館が避難所となり、原発爆発というニュースを聞いて沿岸部に住む大勢の方が避難してきました。私はその避難所で一晩だけ過ごしました。なぜ二晩過ごさなかったかというと、風向きが変わってきたからです。それまでの冷たい北風が南風にかわり雨が降りそうな天候になりました。私はすぐに家族とその避難所を出て福島へ。福島から米沢、そして米沢から更に西の飯豊というところにある避難所にたどり着き、そこで車のガソリンが無くなりました。
飯舘村の避難所で風向きが変わったことに気がついたのは私だけではありませでした。何人か気が付き、気づいた人はそれぞれ避難所を出て行きました。皆さんならどうしますか。「危ないから逃げろ」と言うでしょうか。しかし本当に危険なのかどうかさえ当時は分かりませんでした。その判断は乏しい情報の中で個人個人がしなければならない状況だったのです。そのうえみんながみんな車にガソリンがあるわけではないのです。ここまで来てガソリンが尽きたという人もいました。そういう方々に「逃げろ」とも言えずに、小さいお子さんがいる方に「車にガソリンはある?」と聞いて「ある」と言った方には「どこかに移ったほうがいい」と耳打ちをすることぐらいしか出来ませんでした。今思いかえせば酷いことをしてしまいました。でもだからといってなにもできることがなかったのです。
過去に何度も津波被害にあった三陸には「津波てんでんこ」という言葉があります。津波の時はてんでに逃げろ、親であろうと子であろうと友達であろうとてんでに他のひとにかまわずに逃げろということです。まさにそんな状況でした。
地獄の底を奈落の底といいます。奈落はインドの言葉「ナラカ」を音写したものです。言葉の意味を取って漢字をあてたのが地獄です。
お釈迦さまの時代、インドには日本の戦国時代のようにたくさん国がありました。国とは言っても今でいうと町とか村程度の規模だったかもしれません。その小さな国が戦を繰り返す時代がありました。戦争をすれば勝つ国と負ける国がある。勝った国は負けた国の人達に何日もかけて地面に深いすり鉢のような大穴を掘らせ、完成するとその穴に突き落として上から土をかけて生き埋めにするという凄惨なことをしました。小さい国ですから突き落とされた人たちの中には親戚であったり、友達であったり、知り合いであったり、親子もあったことでしょう。しかし深い穴の底にあって上から土をかけられ今まさに生き埋めにされるような状況になると、その大穴から這い上がろうと、それまで親しかった人たちを踏み台にしてでも助かろうとする。そんな状況が地獄の語源のナラカです。あの時、私はまさにこの奈落の底に落ちていました。