私は2011年の4月以降、わたしの属する真宗大谷派の復興支援のお手伝いをすることになり、宮古、釜石、陸前高田、大船渡、石巻、女川、牡鹿半島など津波の被災地に身を運びました。当初はその光景に圧倒されました。避難所にいる方々のお話の一つひとつに本当に身が震えるような思いをしました。
秋になり人々が避難所から仮設住宅に移るころから被災地を訪れるボランティアの数は減り始め、一年が過ぎると東北全体では当初の9割減となりました。そんななか真宗大谷派のボランティアは定期的に被災地への支援活動を続けています。月に一度仮設住宅を訪れ炊き出しをしている新潟県の若い僧侶が地元の方になぜそんなに被災地へ通うのかと尋ねられ、「そこに人がいるから」と答えたそうです。人と出遇うこれが宗派の支援活動の原動力になっているように思います。
月日が過ぎ、被災地以外では震災の記憶が日に日に風化していくのはしかたのないことかもしれません。しかし、そこに生きている人がいるのです。津波の被災地では瓦礫の片付けこそ済んだもののそこに人々の生活の声は戻ってはいません。仮設住宅での生活が続いています。原発事故は収束したと言われても原発近隣市町村から避難した人々はいつ故郷に帰れるかも分からないままです。避難こそしてはいませんが、いまだ通常の5倍10倍20倍といった放射線量の高い所に住んでいる人々もいます。そんな被災地の人々は自分達だけが世の中から取り残されていってしまっているような寂しさを感じています。
陸前高田市本称寺のプレハブの仮御堂を訪ねてきたボランティアの方がお寺を守っている僧侶に聞きました。「何か今して欲しいことはありませんか。何か必要なものはありませんか」と。その問いにその僧侶は「忘れないで下さい。それが一番の願いです」とこたえました。これは被災した多くの人々の気持ちを代弁しています。
震災後まもなく、ボランティアによって瓦礫と泥のなから引き上げられた本称寺の梵鐘。重機も入れず人力だけで回収された梵鐘は本称寺山門跡へしばらく置かれていました。あたりは一面瓦礫に覆われ津波被災地独特の異臭が漂っていました。いつのころからか梵鐘のまわりに瓦礫の中から拾われた仏像やアルバム、ランドセル、ぬいぐるみなど様々な物が集まりだし、やがて花が供えられるようになり、静かに手を合わせる人の姿も見るようになりました。
多くの人が様々な思いで梵鐘の前に身をおいたに違いありません。この鐘が再びこの街で鳴り響くことがあるのだろうかと誰もが思ったに違いありません。
震災から一年目の3月11日、その日をどう迎えるのか。
そうだ、あの鐘をならそう。
あの日別れた人たち、あの日奪われた故郷を忘れないために。
そうだ、あの鐘をならそう。
あの日からのこと、あの日から出会った人たちを忘れないために。
「決して忘れない」という願いを「勿忘の鐘」という名にこめました。「勿忘」とは「忘れることなかれ」という意味です。全国に賛同を呼びかけ同じ時刻にそれぞれの場所で鐘をつく。たったそれだけのことですが、その願いを共有することが被災者と支援者というそれぞれの立場を超えて共に生きる世界を開くものであると信じて。勿忘の鐘はこうしてはじまりました。これは終わりのない始まりです。