私は一昨年の東日本大震災で被災し、しばらく避難生活をおくりました。私のいた避難所は福島県内からの避難者がほとんどでした。家を失くした人、田畑を失くした農家の人、牛を失った酪農家、船を失った漁師さん、仕事を失くした人、友人や知人を亡くした人、親や子や家族、愛する人を亡くした人、そしてそのすべてが故郷を奪われた人たちでした。みんな突然にそれまでの地域や職場や繋がりを断ち切られていました。
3月の末、新潟県の三条市、燕市の避難所に福島県沿岸部の市町村から大勢の人が避難していると聞いて出かけていきました。そこで一人の年配の女性に出会いました。その女性は心臓に持病があり特別に介護用のベッドに寝ていました。私を見てどこかであったことがあるというので、しばらく話をしてみると、知り合いの葬儀で見かけたお寺さんだと腑に落ちて、それから延々とご自身のことを喋りだしたのです。生まれた里のことから始まって、数年前に亡くなったご主人との出会い、嫁に来て苦労した話から、自宅の庭自慢、年忌法事のお斎を食べに行った料亭の話、まさにその女性の一代記でした。私は聞きながら、ひょっとするとこの年配の女性は厳しい生活環境の中で認知症が進んでしまったのではと思いました。しかし、そうではなかったのです。突然私の手を掴むと「帰れっべかな」と言いました。「帰れるでしょうか」という意味です。その女性はそう言ってぽろぽろと涙を流すのです。まさにそれまでの人生のすべてを奪われたように感じていたのでしょう。
その方の家は事故を起こした原子力発電所から8キロほどのところで、一年半を経てもいまだに自由に帰宅できるところではありません。私は帰れますとも帰れませんとも言えず、ただ女性の手を握り返すことしかできませんでした。故郷とはそこで共に生き、そして死んでいった多くの人たちの記憶と共にあるものだと教えられました。
この震災で、津波にせよ原発事故にせよそれまでの生活を奪われた人の思いはひとつです。もとの生活に戻りたい、それは決してかなわない願いであるかもしれません。避難所では一人一人がいろいろな思いを抱きながら先の見えない日々を送っていました。できる事はその願いに寄り添うことしかないと思いました。
そんな中で改めてであった親鸞聖人があります。聖人42歳のおり、越後から関東に向かう途中、佐貫というところに立ち寄られ、その前年から度重なる地震や台風、飢饉疫病といった惨状の中で苦しむ人々に出会い浄土真宗で特に大切にされている「浄土三部経」というお経を千回読むことを思い立ったと伝えられています。晩年それはまさに自らの力頼みをすることであったと反省されたということですが‥避難所にいると読誦を思い立った親鸞聖人のお心がよくわかりました。思い立った時にそれが自力執心の行為であるとよくご存知であったはずです。まして、そのことによって状況が変わるはずなどないこともです。しかし、苦しみ悩む人々の中に在って、「せずにはおれなかった」に違いありません。その声と姿にどれだけの人が癒されたことでしょうか。親鸞聖人の“しょうにん”は上の人ではなく、聖なる人と書きますが、 そこに「上の人」と書かずに「聖なる人」と書くところにわたしどもの宗派、真宗大谷派をおひらきになった親鸞聖人の生き方があるように思います。聖人の当時、出家しないで仏教のおしえに生きる人、特に念仏を伝える者を念仏聖と呼びました。「聖人」とは聖り人です。民衆と共に生き、共に苦悩しながらともどもに念仏を喜ぶ。私にとってその姿こそがこの震災の中で出会った親鸞聖人の生きた姿です。
聖人の時代も地震、台風、飢饉、疫病、政変や戦争という現実が目の前にありました。そこで南無阿弥陀仏と念仏しても病が治ったり、飢饉が解消されたり、死んだ家族が戻ってくるわけではありません。しかしそこを生きてゆく力を見出すことはできた。その力は一人じゃないということです。一人じゃないと実感するところに念仏の功徳があるように今は思っています。