ラジオ放送「東本願寺の時間」

金石 潤導(北海道 開正寺)
第一回 願われてある 1音声を聞く

 昨年の3.11以降強く思うことがあります。人が生きる場所には必ず願いがある。そのことについて、お話ししたいと思います。
 昨年、私の所属しておりますお寺の報恩講という、親鸞聖人の教えに集うものにとって、一番大切な法要が営まれる直前の出来事でした。
 或る40代の男性でありますが、その方が急死してしまいました。裸一貫で建設業を立ち上げ、数名の若い方たちと汗を流す日々を送っておられました。しかし、若い時分から患っていた糖尿病の合併症のせいでしょうか、急性心不全で逝去されたのでした。
 お母様と二人で暮らしておりましたから、一人になるお母様にとっては息子を失う悲しみと寂しさは、さぞや辛いことであることは想像できます。
 私自身も非常に重いものをかかえながらではありましたが、枕直しのお勤めに故人の自宅に伺いました。枕直しのお勤め、勤行と申しますのは、本来、生前に真宗の信者自身がお育てをいただいた仏様や親鸞聖人にお礼を遂げるものでありますが、故人にはそのいとまが無かったということで、変わって所属寺院の住職が勤めるものであります。
 その方の枕直しのお勤めをしておりました時でした。お勤めをしている私の脇をすり抜けて、故人の名を呼びながら、その頬を撫で、肩を揺り動かす女性がいたのです。それはもう号泣と言っていい姿でありました。後にその方は故人の伯母に当たる人であることを知るのですが、この出来事は私たち一人ひとりに重ねて考えてみても、身に覚えのある行為ではないでしょうか。私自身、数年前に父を亡くし、その遺体がお骨になって還ってくるまで、時間の限り、頬を触り「父さん」と呼び続けていたのを思い出します。では何故、私たちは、肉親はもとより、いとしい人、深いご縁をいただいた人が、その人生を尽くし、いのち終えられた遺体にむかって、名を叫び、冷たくなった頬に触れていくのでしょうか。
 これは、或る人から教えていただいたのですが、私たちは大切な人を失った時、分別の心では亡くなったことは理解します。しかし、自分自身の深いところでは、それを受け止め、その事実に頷くことは難しいというのです。ですから、私たちは遺体にすがり、頬に触れ、その名を呼ぶのです。それは「できることならもう一度目を醒ましてほしい、しっかりと言葉を交わしお別れをしたい」という思いが、そうさせるというのです。
 おおよそ仏教徒は、遺体に寄り添って通夜、葬儀を勤めます。それは、ご遺体が身をもって、残されていく人達に伝えている願いを聞いてきたという歴史があるのでしょう。
 ご遺体は、どんなに名を呼ばれても目を開けることはありません。どんなに肩を揺すろうとも起き上がることもありません。では、ご遺体は残されていく人に何を語っているかというと「私はもう目を開けることはありません。私はもう何処にも行きません。私はもう何も言いません。遺体となったこの身はあなたに委ねます」と全身をあげて伝えているのでしょう。そして、その遺体の一切を託された人を遺族といいます。もう少し踏み込んで言うならば、ご遺体は「娑婆、この世の縁尽きたならば、あなたもこうなるのです。だからしっかり生きてね」と願っているのでしょう。その願いを受け取る人を遺族といいます。亡くなった方の家族という意味もありましょうが、私は亡くなった方の願いを受け止める人こそ遺族と言いたいのです。そういう意味では、世の中に遺族でない人は一人もいないのでありましょう。しかし、私たちは本当に遺族となっているか、心致さねばならないと思います。
 3.11では、多くの方達が亡くなられました。本当に痛ましい限りであります。私たちは、その方達がどれほど望んでいたか計り知れない今日を生きているのでありましょう。そのことを忘れてはなりませんし、自分自身が亡き人に願われている一人として、尽くしていかなければならないと思うのであります。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回