仏様の願いは人間の理知、分別のおよぶことのできない、人智を大きく超えた、はたらきであることを教えてくださっています。日ごろ、あたりまえにしていた事柄が、出会い気づいてみれば驚きの出来事であったというのが不思議ということなのでしょう。現代を傲慢に生きる私たちは、驚くことも感動することもなく、あらゆる事をあたりまえにしてきたのかも知れません。深い願いをかけられつづけてきた「いのち」を生きるものであったことを忘れ、自己関心という自らの思いに沈み、他者と本当に出会うことを遠ざけてきたのかも知れません。
「仏教は時代の問題である。人間の問題にこたえうるものでなければ、ただの教養である。」という、お世話になった先生の言葉が思い出されます。では人間の問題とはなんでしょうか。たとえでお話ししますと、私たちは「人殺し」という言葉は知っていますが、「人間殺し」という言葉は使いません。まさに不思議であります。人殺しの人というのは、単に人間の姿、形をしていることを言うのではないでしょうか。それに対して人間というのは、人の間(あいだ)と書きます。間という一字に人と人との関係やつながりを感じる時、共に生きるものとして、奪い傷つけ合いたくはないという願いが起こるのでしょう。だから人間殺しという言葉がないのではないでしょうか。仏教は「人間は尊敬しあうもの」と教えてくれています。しかし、人と人とは決して一心同体にはなりません。必ずそこには間(はざま)が生じるのでありましょう。いかに愛おしく思っていても、縁によっては傷つけ奪ってしまうのも人間であります。仏教は、この人間の姿を悲(かなしみ)の器(うつわ)と表現します。これこそが、仏教の人間に対する理解と、私は受け止めます。
私たちの生きる社会は資本主義です。一歩間違えば、競争主義・業績主義になり、その結果、うつ・自殺・不平等・失業という問題が起こるのではないでしょうか。しかし、権利の格差・経済・生活不平等、そういったものに問題意識が起こらないように人々は慣らされていきますから、そうした時に人間は何を失っていくかというと、温もりであるとか手触りであるとか痛みであるとか、そういったものに人間は無感覚になってしまうのではないかと、わたしは思います。つまり、人間性が損なわれていく。共に生きていく者の悲しみが感じられない、まさに人間性を失いながら、それすらも気づくことがないのではないでしょうか。
昨年の3月11日に発生した未曾有の巨大地震と大津波は、多くの生命を一瞬にして奪い、広範囲に亘って甚大なる被害をもたらし、今なお原子力発電所の深刻な事態は予断を許さない状況であります。このことを受け、わたしどもの宗派、真宗大谷派は、今年6月に声明をだし、次のように言っております。「今なお、福島第一原子力発電所の事故で多数の苦しんでおられる方がある中で、一旦停止した原子力発電所を再稼動する理由に、人のいのちよりも優先すべきことがあったのでしょうか。」と。原子力の平和利用という言葉に踊らされ開始した国策としての原発は、被曝労働者を虐げ、地域差別を助長し、新たな被曝者差別を引き起こし人間の尊厳すら奪ってきたのだと、私は受け止めます。更には今を生きる生命と同時に、これから生まれんとする生命すら脅かしているのでありましょう。あたかもエネルギー問題へと転化されていく風潮のなか、我々自身が原発の持つ問題性を見失っているのかも知れません。無関心なるが故に原発を容認し、狭い自己関心に囚われる私たちのありようが原発を支えてきたのでありましょう。そして多くの人々を被曝させてきたのだと、私は思います。今こそ自らが生み出してきた現実を直視し、痛みと悲しみのなかから人間を取り戻さんとする歩みが求められているのでしょう。「あなたを絶対に見捨てません。あなたを絶対に差別しません」と、自らが願う前に、仏様に願われてある「いのち」を生きているのが私たちなのでありましょう。決して福島を忘れてはいけないと思うのと同時に、自分自身にいったい何が出来るのか心致さねばならないと思うのであります。それは、出来るか出来ないかの問題ではなく、願いが歩ませるのです。そして歩みとなったことが、いよいよ願われてあることを明らかにしてくれるのでありましょう。