ラジオ放送「東本願寺の時間」

金石 潤導(北海道 開正寺)
第五回 願われてある 5音声を聞く

 昨年の3・11で亡くなられ方たちに私たちは何を願われるのでしょう。そのことについてお話ししたいと思います。
 前回は五つの不思議の三つ目の話をさせていただきました。日ごろ、あたりまえにしていた事柄が、出会い気づいてみれば驚きの出来事であったというのが不思議ということなのでしょう。四つ目の不思議は、仏様の教えを通して、亡き人の「いのち」に遇うということは、人間の理知、分別を超えているということであります。
 私の暮らす町に或るご夫婦がおられました。とても働きものの仲のよいご夫婦でした。そもそもは違う街の出身でありましが仕事の関係で、数十年前から私の暮らす町に住まわれ二人の娘を育て孫にも逢うことができました。やがてお仕事を定年退職した後、夫婦みずいらずの日々を送っていましたが、このご夫婦の夫が急死してしまいます。この夫は、どういうわけか朝食後必ず居間のソファに横になって一眠りするのが日課でした。10分か15分でしょうか、一眠り済ますとムクッと起き上がり、夏であれば庭の整備、冬であれば除雪作業に明け暮れる毎日でした。その日もいつものように朝食後ソファにゴロンと横になっていた夫ですが、いつもと違うのは1時間近くたっても起きなかったというのです。心配になった妻は、夫を起こそうと側に寄った時、既に呼吸をしていないことに気づきます。あわてて救急車を呼び救命措置を施しますが、その甲斐むなしく息を引き取っていかれます。急性心不全でした。あたりまえの一日が始まったはずが夫婦の別れの日になってしまいました。それからというもの、ひとり残された婦人は、夫が亡くなったことを受け入れられない寂しい毎日を送ることとなりました。私はその婦人と何度となく会話を重ねましたが、夫が死んでしまったとは思えない、ひょっこりと顔を出してくれるのではと、いつも考えてしまうとおっしゃっていました。そんな寂しい日々のなか、すこしずつではありますが、婦人は夫が亡くなられたという事実を受け入れていきます。それは、窓の外を眺めていると実感するというのです。窓の外には夫が手入れをしていた庭が荒れ放題で放置されているというのです。婦人は荒れ果てた草だらけの庭を眺める時、夫はやはり亡くなったのだと思えるようになったと言っておられました。それからです。ひとり残された婦人は一念発起して庭の草取りを始めます。ある夏の暑い日でした。炎天下にも関わらず、草取りをしている姿を見かけましたので、私は「暑いのだから無理しないでね」と声を掛けたのでした。そうしましたら、草を取る手を止めて、こちらを振り向き、語りだしました。「70歳過ぎてからこれはしんどいね、足も腰も痛くて痛くて、草は取っても取ってもはえてくる、何もおもしろくないのよ」と、なにやら愚痴のように聞こえますが、その婦人の顔は笑っていたのです。そして「でもね、私こうして草を取っていると、亡くなった夫に遇えるのよ」と言っておられました。私は、この言葉に深く感動いたしました。夫は亡くなっていますから、面と向かって、顔と顔とを突き合わせて、会うことはかないません。しかし、自分も夫のしていたように庭を整備してみると、思わぬことに亡き夫の願いに遇えるというのです。それは、生前、夫が庭を整備していた頃、抱いていたであろう願いです。きれいに整えられた庭を共に眺め、共に喜びたかった願いです。既に願われていた自分であったという気付きです。親になって親の心に気付くように、同じ場に立って同じ方向を向く、そして出遇う。それが四つ目の不思議の仏様の教えを通して、亡き人の「いのち」に遇うということなのでありましょう。同じ場とは現実の生活であり、同じ方向を仏様の世界というのでしょう。現実の生活は、辛く、きびしく、悲しいものであります。しかし、そこに生きる勇気と励ましを、亡くなって逝かれた人たちから、いただくのでありましょう。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回