ラジオ放送「東本願寺の時間」

田村 晃洋(茨城県 專照寺)
第一回 教えに親しむ音声を聞く

 この度東本願寺より「現代と親鸞」というテーマを与えていただきました。その現代という時代をどのように受け止めるべきなのか。二年前に起きたM9という千年に一度と言われる地震。その地震によって想像をはるかに越える津波が陸地を襲い、多くの尊いいのちが奪われて行きました。さらに私たちが生活していたふるさとを原子炉の水素爆発により放射能が辺り一面に降り注ぎ、土地は汚染され帰ることすらできない現実。生きるということの意味を突き付けられたのであります。それは人間生存の危機的環境であります。その課題に親鸞聖人はどのような答の糸口を示されているのでしょうか。
 またこの度の親鸞聖人750回御遠忌法要のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」という内容の法要でした。いのちのはたらきによって私たちは生まれることができましたし、亡くなってもいくのです。すべていのちの働きなのです。そのいのちは私がこの世に誕生するはるか以前から、躍動してきたいのちの歴史があるのです。この我が身は人間の歴史を貫いて生きてきた。言うなれば人類先端を歩み続けているいのちであり、人類を代表している一人であると、このように受け止めることはできないものでしょうか。もしそのように受け止められることであれば、私たち一人一人は非常に重い歴史のあるいのちをいただいているのであります。このいのちの在り方は今日だけが危機的状況に遭遇しているのではなく、絶えず危機的状況の中を生き抜いて今日に至っているのです。このいのちが救われて行く道こそ、一人の人間が救われて行く道なのです。その道を、法然上人が説かれる教えをただ一筋に親鸞聖人は聞いて行かれたのです。そしてその教えが親鸞聖人の生涯を貫かれたことでもありました。
 親鸞聖人は比叡の山を降りられる決意をなされた29歳の年までの20年間、比叡山での修行は一筋に往生浄土の要に出会う教えを求め願われていたのです。その願いを満たしてくれることはついになかった。そこでついに親鸞聖人は比叡の山を降りられて、多くの人々の生活そのものの中に仏法に出会う場所を探し求められたのであります。たまたまそこに法然上人が民衆の中で仏教を説かれていることをお聞きいたしました。ひょっとするとそこに自分が求め続けていた仏教があるのではないのか、百日の間其れこそ雨の日も雪の日も一日も欠かす事なく法然上人のおいでになられます場所に通い続けられました。私は思うのです。初めて法然上人にお会いし、おはなしを聞かれたときこの方に遇うためいままでの時間をすごしてきたのではなかったのか、と親鸞聖人は直感的に思われたに違いない。そのように思われた親鸞聖人は、今までの自分の歩みをすべて語られ、ここに尋ねてきたいわれを包み隠さず素直に語られたのではなかったのか、と思います。
 そのお話をお聞きになられた法然上人は浄土宗は人間本来のありのままの姿で往生するのですよと述べられたのであります。親鸞聖人は偉い人間になることが救われる人間だと思い込んでいましたが、人間本来の姿のまま救われる仏教がここにあったのだ。今目の前においでになられる法然上人こそ、そのお姿のまま往生されている尊いお方であるといただくと、お遇いできたことは誠にまれなる出来事であり、しかも今まで自分の願いを妥協せず貫いた結果だと、喜びが全身にあふれていたのではなかったのか。誰しもが人間本来の本性に触れますと、人間のそのままの姿にてお念仏の教えが心に響き、こころが安定するのです。だからお念仏こそ仏陀釈尊が誓われた真髄であるという大乗仏教の至極の教えなのです。民衆が称えているお念仏は誠に仏様のいのちが念仏ということばになって生きているのです。そのお念仏のなかに生活しているからこそ安心して生活ができるのです。
 現代を生き抜く人間にとって必要なことは、丁度箱と蓋がぴたっと合わされるような教えに出遇うことが求められています。その求める教えこそ親鸞聖人によって顕らかにされた「浄土真宗」の教えなのです。私は今後益々お念仏のこころを戴くために教えを聞いてまいりたいと思います。

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