ラジオ放送「東本願寺の時間」

田村 晃洋(茨城県 專照寺)
第二回 ご恩をいただいて音声を聞く

 月日が経つのは実に早く感じられるものです。今から50年ほど前1961(昭和36)年に私は大谷大学の門をくぐりました。四月から五月にかけまして「親鸞聖人700回御遠忌法要」が勤められ、京都の町中がにぎわいを見せ華やいだ雰囲気でした。私の両親もお念仏を喜ぶ門徒とも半月ぶりにお会いし、挨拶を交わしながら、東本願寺にお参りさせていただきました。
 そして2年前の2011(平成23)年「親鸞聖人750回御遠忌法要」にお参りさせていただきました。学生時代お互い五十年後生きていたならば、この東本願寺で再会しようと別れた友人とも会うことができ、お互いの再会を喜び合いました。しかもこうして生涯二度の御遠忌法要に遇うことができたことは、誠にありがたいご縁であったと思いました。
 しかしこの度の御遠忌が始まる直前東日本大震災が起こり、多くの尊い人命が津波の濁流に流され、一瞬のうちに亡くなりました。親鸞聖人88歳のころ、関東に送られたお手紙の中に、年老いた人や若い人など、男も女も、多くの方が亡くなって参りました。残された方々は悲しみを内に抱えながら、親鸞聖人がおっしゃられることばに耳を傾けておりました。親鸞聖人は「亡くなられていく姿は縁によってさまざまですが、亡くなり方が人間の問題ではありません。大事なことは仏様の仰せをお聞きして安心して生活することができているかどうかです」と述べられておられます。しかし2年を迎えた時点で行方不明者が2681人、亡くなられた方が15883人と新聞には報道されています。私にはどうすることもできませんが、この震災を風化させる事なく、保育園の幼い子供達に伝えて行かなければならないと思っております。それが私にできる事ではないかと思っております。
 私が大学二回生のとき、尋源館、当時は本館と申しておりましたが、赤レンガ造りの2階の教室で「大行論」という講義がありました。先生は広瀬杲先生でした。当時先生のお名前も講義の内容など全く知らないまま講義を受けておりました。講義の内容がだんだんと私の耳に届くようになりますと、ノートを取るのも忘れているほど先生の語ることばにうなずいている自分に気づかされました。まるで先生の語る一言一言が自分の心の内側を露呈しているかのように語られておられました。或るとき私は講義が終わり帰られる先生の後を追いかけて「先生はどうして私の心を見透かしているように、お話をされているのですか」と問いかけました。先生は「あ、そうですか」と返事をされました。いままで私をお育てくださった先生は数多くおいでになりますが、このような人生についての問いかけを先生にしたことは初めてでした。
 お釈迦様の仏弟子に阿難尊者がおいでになりました。ある時お釈迦様がお話をされる直前阿難尊者は、その光り輝くお姿に初めて触れたとき、思わず座より立ち上がり「どうしてそのように光り輝いておいでになるのですか。今初めてお釈迦様のお姿に出遇うことができました。」と驚きの声を上げて述べられたのです。その問いを受けられたお釈迦様は「今の問いは大切な問いなのです。誰かから言われておっしゃられたのですか」「いいえ、ちがいます。私の所見で述べたものです」と語られますと、お釈迦様がその問いに答えるように、「どうしてこの世に誕生してきたのか、そのいわれをお話し致しましょう」とおっしゃられました。阿難尊者の問いかけによって、初めてお釈迦様が身近な方として触れることができたように思われます。
 こうして今教えに親しむことができますのも、たまたま広瀬先生の講義を受講したことが、私の将来の歩む道を指し示されていたことに驚きとともに、深く感謝申し上げる次第であります。もし先生の講義を受講していなかったならば、50年に及ぶ間こうして親鸞聖人の教えをお聞きしていたか。住職をしていたか甚だ疑問であります。いまさら教えていただいたことに深い恩徳を感ずるとともに、先生からいただいたご恩に何一つ報いることのできない自分でありました。先生の晩年に至るまでご教導いただきましたことは、誠に私の宝であります。先生は2年前の親鸞聖人750回御遠忌法要の年の12月30日87歳でお浄土にお還りになられました。師と呼べる方との出遇いの尊さをひしひしと感じております。

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